アメリカ独立戦争

アメリカ歴史Part 2:革命は理想か、それともビジネスか

Part1では、アメリカが「自由の国」として始まったわけではないことを書きました。北米にはもともと先住民社会があり、その上にヨーロッパ列強が入り込み、土地、交易、労働力、宗教、軍事をめぐって争った。そして1754年から1763年のフレンチ・インディアン戦争でイギリスがフランスに勝利します。普通ならここで「勝ってめでたし」となりそうですが、そうはなりませんでした。

戦争には莫大な金がかかります。イギリスは領土を増やした一方で、巨大な戦費負担と、その新しい領土を守るコストまで抱えることになりました。そこで本国は考えます。「そもそも北米の植民地を守るためにも戦ったんだから、植民地側にも負担してもらおう」理屈だけ聞けば、そこまで無茶な話でもありません。

ところが植民地側からすれば、「いや、こっちの代表もいないロンドンの議会が、勝手に税金を決めるのはおかしいだろ」となる。ここから、税金の話が権利の話になり、権利の話が独立の話になり、最後には戦争になります。

アメリカ独立革命は「自由を求めた人々が圧政に立ち向かった」という話だけではありません。税金、商売、密輸、独占、戦費、土地、統治権。かなり現実的な話から始まっています。ただし、その現実的な争いから生まれた「自由」や「政府を疑う」という思想が、その後250年近くアメリカを動かし続けることになります。


ざっくり年表(Part2の地図)

細かい人物名を覚える前に、まず流れを固定します。

1763年 — フレンチ・インディアン戦争終結
イギリスが勝利。しかし莫大な戦費負担が残る。

1765年 — Stamp Act(印紙法)
植民地で「No taxation without representation」という反発が強まる。

1770年 — Boston Massacre(ボストン虐殺事件)
ボストンで英兵と市民が衝突。反英感情が加速する。

1773年 — Boston Tea Party(ボストン茶会事件)
茶税と東インド会社をめぐる政策への抗議として、大量の茶を海へ投棄。

1774年 — Intolerable Acts(耐えがたい諸法)
イギリスがMassachusettsへの締め付けを強化。逆に植民地側の連帯が進む。

1775年4月 — Lexington and Concord
イギリス軍と植民地民兵が衝突。独立戦争が始まる。

1775年7月 — Olive Branch Petition
戦争が始まっているのに、植民地側はまだ国王との和解を試みる。

1776年1月 — Thomas Paine『Common Sense』
「そもそも王様に支配される必要があるのか」という独立論が一般層へ広がる。

1776年7月2日 — 独立を決議
Continental CongressがLee Resolutionを採択。

1776年7月4日 — Declaration of Independence採択
独立する理由を世界に向けて文章として示す。これが現在のJuly Fourth。

1781年 — Yorktown
イギリス軍が降伏し、独立戦争は事実上決着。

1783年 — Treaty of Paris
イギリスがアメリカ独立を正式に承認。

1787年 — Constitution制定
今度は「独立した国をどう運営するのか」が問題になる。

1789年 — George Washingtonが初代大統領に就任

1791年 — Bill of Rights成立
言論、宗教、武器所持など、現在まで続く権利の基本部分が成立。

1797年 — John Adams、第2代大統領

1800年 — JeffersonがAdamsを破る
対立する政治勢力への政権交代が選挙によって行われる。

1801年 — Thomas Jefferson、第3代大統領

1803年 — Louisiana Purchase
フランスから巨大な領土を購入し、アメリカの国土が一気に拡大。

1809年 — James Madison、第4代大統領

1812〜1815年 — War of 1812
再びイギリスと戦争。Washington, D.C.が攻撃され、White Houseも焼かれる。

1817年 — James Monroe、第5代大統領

1823年 — Monroe Doctrine
ヨーロッパ諸国に対して、西半球へのさらなる介入を牽制する。


1. なぜイギリスは課税を強めたのか

独立革命の話では、イギリスが悪役として登場しがちです。でも、まず本国側の理屈も見ておいた方がいい。フレンチ・インディアン戦争に勝ったイギリスには、巨額の戦費負担が残りました。さらにフランスから得た北米領土を維持し、防衛する必要があります。軍隊を置くにも金がかかる。

そこで、「植民地も費用を負担すべきだ」となります。Sugar Act、Stamp Act、Townshend Actsなど、植民地に対する課税や徴税の強化が続きます。ところが植民地側が反発した。ここで有名になるのが、

No taxation without representation.「代表なくして課税なし」です。

重要なのは、単純に「税金が高いから嫌だ」という話ではなかったことです。植民地側には英国議会に選出した代表がいない。なのに、その議会が自分たちに課税する。だったら、「誰の同意で俺たちから金を取るんだ?」となる。

税率の問題が、統治の正当性の問題に変わったわけです。そしてこの感覚は、現在のアメリカにもかなり残っています。アメリカで税金の話をすると、単なる家計の話ではなく、「政府は俺の金を何に使っているんだ」「政府にそこまでやる権限があるのか」という話になりやすい。政府と納税者の間に最初から少し緊張感がある。これは建国前からです。


2. Boston Massacre ― 名前から想像すると少し違う

1770年、Bostonで市民とイギリス兵が衝突し、英兵の発砲によって5人が死亡しました。これがBoston Massacreです。Massacreという名前を見ると、軍隊が市民を大量虐殺したような印象を受けます。

実際には、混乱した群衆と兵士の衝突の中で起きた事件でした。重要なのは事件の規模そのものより、その後どう使われたかです。反英派はこれを「イギリスの圧政」の象徴として広めます。つまり、政治宣伝です。ここでPaul Revereなどが重要になります。現実に起きた事件と、その事件が政治的にどう語られるかは別です。これは現代アメリカを見ていても、かなり馴染みのある構図だと思います。


3. Boston Tea Partyは何に怒っていたのか

1773年のBoston Tea Partyは、アメリカ独立史で最も有名な事件の一つです。植民地側の人々が船に積まれていた茶箱をBoston Harborへ投げ捨てた。ここまでは知っている人も多いと思います。

でも、「高い茶税に怒った市民が茶を海に捨てた」だけで覚えると少しズレます。背景にはBritish East India Companyがあります。

東インド会社は巨大企業でしたが、当時経営難に陥っていました。そこでイギリス政府はTea Actによって、東インド会社が植民地市場で茶を販売しやすくします。結果として、合法的な茶はむしろ安くなる可能性がありました。それでも反発した。なぜか。

税そのものを受け入れることが、「英国議会には植民地へ課税する権利がある」と認めることにつながるからです。さらに既存の植民地商人や密輸業者にとっては、自分たちの商売にも影響します。つまりBoston Tea Partyは、自由、課税、商売、独占、密輸、政治権力が全部混ざった事件です。きれいな自由運動だけではありません。


4. イギリスが締め付けたら、逆に植民地がまとまった

Boston Tea Partyに対して、イギリス政府は強硬策を取ります。1774年のCoercive Actsです。植民地側ではIntolerable Acts、「耐えがたい諸法」と呼ばれました。Boston港を閉鎖するなど、Massachusettsに対する強い制裁が行われます。

本国としては、「ここで見せしめにして秩序を回復しよう」という発想だったのでしょう。ところが逆効果になります。他の植民地が、「次は自分たちかもしれない」と考え始める。それまで別々の事情を抱えていた植民地が、イギリスという共通の相手を意識するようになります。

1774年、First Continental Congressが開かれます。ここでようやく「13植民地」というものが、政治的なまとまりとして見え始めます。ただし、まだ独立ではありません。


5. 戦争が始まっても、まだ独立する気ではなかった

1775年4月、MassachusettsのLexington and Concordでイギリス軍と植民地民兵が衝突します。独立戦争の始まりです。そしてSecond Continental Congressが開かれ、George WashingtonがContinental Armyの最高司令官になります。

ここまで来ると、「もう独立するしかないだろ」と思います。ところが、そうではありません。1775年7月、植民地側はGeorge IIIにOlive Branch Petitionを送ります。要するに、「まだ関係を修復できませんか」という最後の和解提案です。

国王側はこれを受け入れず、植民地を反乱状態とみなします。ここが大きな転換点です。アメリカ人は最初から、「俺たちはアメリカ人だ。イギリスから独立するぞ」と思っていたわけではありません。彼ら自身がBritish subjectsでした。だから最初は、「イギリス人として当然持っているはずの権利を守れ」だった。そこから、「もうイギリス人である必要があるのか?」へ変わっていったのです。


6. 『Common Sense』が空気を変えた

1776年1月、Thomas Paineが『Common Sense』というパンフレットを出版します。これはかなり重要です。Paineは難しい政治哲学ではなく、普通の人にも読める言葉で独立を訴えました。乱暴にまとめれば、「そもそも、なぜ小さな島国が巨大な大陸を支配しているんだ?」「王様なんて本当に必要なのか?」という話です。タイトルもそのままです。Common Sense。そんなの常識だろ。これが広く読まれます。独立という考えが、一部の政治家や活動家だけの話ではなくなっていく。つまり独立革命には、軍事だけではなく、「人々が自分たちをどう認識するか」という心理的な革命もありました。BritishからAmericanへ。このアイデンティティの変化はかなり大きいです。


7. Patriots vs Loyalists ― アメリカ人全員が独立したかったわけではない

独立戦争という名前から、Americans vs Britishと考えたくなります。実際はそんなにきれいではありません。植民地社会の中に、Patriots(独立派)Loyalists(王党派・英国支持派)がいました。さらに、「どっちでもいいから戦争に巻き込まないでくれ」という人たちもいます。

つまりAmerican Revolutionは、対外戦争であると同時に、植民地内部の内戦的な側面もありました。そして「北部=独立派、南部=英国支持」という単純な構図でもありません。Massachusettsは早い段階から反英運動の中心でした。一方、南部のVirginiaからはWashington、Jefferson、Patrick Henryなど独立運動の中心人物が出ています。しかしCarolinasやGeorgiaなどにはLoyalistが強い地域もあり、戦争後半にはPatriotとLoyalistの激しい戦闘が起きます。つまり地域差はある。1860年代の南北戦争のNorth vs Southを、そのまま1770年代へ持ち込んではいけません。この時代の分裂線はもっと複雑です。


8. 「自由」は誰にとっての自由だったのか

1775年、Virginiaの英国総督Lord Dunmoreが、反乱側の主人から逃げて英国側に加わる奴隷に自由を与えると宣言します。ものすごく皮肉な構図です。「自由」を掲げてイギリスと戦うPatriot側には奴隷所有者がいる。一方、奴隷化された人の中には、British側へ逃げた方が自由になれる可能性がある。だから、

America = Freedom
Britain = Oppression

では整理できません。誰にとってのFreedomなのか。この問いは、1776年の時点ですでに存在します。そして、この矛盾は消えません。


9. 1776年7月4日、何が起きたのか

1776年6月、Virginia代表Richard Henry LeeがContinental Congressに決議案を提出します。これがLee Resolutionです。内容を簡単に言えば、「これらの植民地は自由で独立した国家であり、そうあるべきだ」というものです。

ただ、すぐに全植民地が賛成したわけではありません。独立に慎重な代表団もいました。そこで議論を続ける一方、「独立するとしたら、その理由を説明する文章も必要だ」ということでCommittee of Fiveが作られます。メンバーは、

Thomas Jefferson
John Adams
Benjamin Franklin
Roger Sherman
Robert Livingston

の5人。実際の草案を中心になって書いたのがThomas Jeffersonです。そして1776年7月2日、Continental Congressは独立そのものを決議します。ここは意外と知られていません。独立を決めた日は7月2日です。その2日後、1776年7月4日Declaration of Independenceの文章が正式に採択されます。

だから現在アメリカ人がJuly Fourthとして祝っているのは、「独立を決議した日」より、「独立宣言という文章を採択した日」に近い。John Adams自身は、将来アメリカ人は7月2日を盛大に祝うだろうと予想していました。外れました。今ではJuly 2ndに花火を上げる人はほぼいません。July Fourthです。


10. “All men are created equal”という巨大な矛盾

Declaration of Independenceで最も有名なのが、“all men are created equal”という言葉です。さらに、Life, Liberty and the pursuit of Happinessという権利を掲げます。ものすごく強い文章です。ただし、これを書いたJefferson自身が奴隷所有者でした。女性には政治的権利がない。先住民も、この「平等」の中に実質的に含まれているとは言い難い。

つまり1776年の「all men」は、現代的な意味での「すべての人」ではありませんでした。ここで、「だから全部偽善だった」と切ってしまうのも簡単です。逆に、「当時としては素晴らしい理想だった」だけで済ませるのも雑です。

もっと面白いのは、この文章が後世のアメリカ自身を縛ることになったことです。奴隷制廃止運動。女性参政権運動。Civil Rights Movement。後の人々が、「all men are created equalって、自分たちで書いたよね?」と建国理念を逆に武器として使えるようになります。

アメリカでは政治議論になると、200年以上前のFounding FathersやDeclaration、Constitutionが何度も持ち出されます。単なる歴史好きだからではありません。「建国時に自分たちが約束したこと」を現在の政治に持ち込む文化があるからです。


11. 独立戦争はどう終わったのか

独立宣言を出したから独立できたわけではありません。宣言しただけなら、「勝手に言ってろ」で終わります。実際には、その後も戦争が続きます。しかも植民地側が単独でイギリス帝国を倒したわけでもありません。ここで重要なのがFranceです。フランスはイギリスの敵です。つまり、アメリカの自由を純粋に応援したというより、「イギリスを弱らせられるなら支援する価値がある」という地政学的な利害があります。武器、資金、軍隊、そして海軍。フランスの支援は決定的でした。

1781年、Yorktownでイギリス軍のCornwallisが降伏します。そして1783年のTreaty of Parisで、イギリスがアメリカ独立を正式に承認します。ここでもPart1と同じです。理想だけで国際政治は動かない。敵の敵は味方。アメリカ独立も、ヨーロッパ列強の勢力争いから切り離しては理解できません。


12. 独立した。でも国としてはかなり弱かった

イギリスから独立した。では、強いアメリカ合衆国が完成したのか。全然そんなことはありません。最初の国家体制であるArticles of Confederationでは、中央政府の力がかなり弱く設定されていました。これはある意味当然です。せっかく強いイギリス政府から逃れたのに、すぐ自分たちで強い中央政府を作ったら、「何のために革命したんだ」となります。

だから州の権限を強くした。ところが今度は中央政府が弱すぎる。税金を十分に集められない。州同士の利害を調整しにくい。国として経済政策をまとめにくい。軍事的にも弱い。つまり、政府が強すぎるのも嫌。でも弱すぎても国が回らない。この問題がいきなり出てきます。そしてこれは、現在まで続くアメリカ政治の基本問題です。


13. Constitution ― 政府を作る。でも政府を信用しない

1787年、PhiladelphiaでConstitutional Conventionが開かれます。ここで現在につながるUnited States Constitutionが作られます。目的の一つは、Articles of Confederationの弱すぎる中央政府を立て直すことでした。でも同時に、「中央政府を強くしすぎたら、またイギリスみたいになる」という恐怖もある。そこで、Executive、Legislative、Judicialと権力を分ける。President、Congress、Courtsがお互いを牽制する。さらに連邦政府と州政府にも権力を分ける。これがFederalismです。

要するに、政府は必要。でも政府を信用しすぎないように設計する。この発想がアメリカ政治の基本にあります。日本人から見ると、「なんで何を決めるにもこんなに面倒なんだ」と思うことがあります。でも、ある意味わざとです。簡単に一人が全部決められないように作ってある。


14. Bill of Rightsが今でも揉め続ける理由

1789年にWashingtonが初代大統領に就任し、1791年には最初の10の憲法修正条項、Bill of Rightsが成立します。ここには現在のアメリカでも毎日のように出てくるテーマがあります。

First Amendment。
宗教、言論、出版、集会などの自由。

Second Amendment。
武器を保持・携帯する権利。

このあたりが今でも大論争になるのは、単なる現代政策の話ではないからです。アメリカ人にとって、「政府が何をしていいか」より、「政府に何をさせてはいけないか」という問題と結びついている。だから銃規制の議論なども、「銃が危ないから規制すればいい」だけでは終わりません。相手側は、「政府に国民の権利を制限する力をどこまで与えるのか」という建国時代の話をしています。ここを知らないと、議論が噛み合いません。


15. George Washington ― 「最初の大統領」以上の意味

1789年、George Washingtonが初代大統領になります。Washingtonが特別なのは、単にPresident No.1だからではありません。まだ「大統領」という仕事自体に前例がない。どう振る舞うのか。どこまで権力を使うのか。どういう内閣を作るのか。全部ほぼ手探りです。

そしてWashingtonについて特に重要なのが、権力を手放したことです。独立戦争後、彼には軍事的な権威がありました。そのまま強権的な指導者になる道もあり得た。でも軍の指揮権を返上した。さらに大統領も2期で退任します。憲法上、当時3期目が禁止されていたわけではありません。自分から辞めた。これが前例になります。アメリカでは、「強いリーダーは必要。でも権力に居座るリーダーは危ない」という感覚が非常に強い。Washingtonはそのモデルになりました。


16. John Adams ― 建国した瞬間から政治は割れた

1797年、第2代大統領John Adamsが就任します。Washingtonの時代からすでに政治勢力は分裂し始めていました。FederalistsとDemocratic-Republicansです。つまり、「建国の父たちが一致団結して理想国家を作った」というイメージも少し違います。普通に喧嘩しています。新聞も激しく相手を攻撃する。外交政策でも揉める。政府の権限でも揉める。

特にAdams政権のAlien and Sedition Actsは、政府批判と言論の自由をめぐる大問題になります。「自由のために革命した国」が、建国して十数年で言論規制をめぐって揉めている。ここもアメリカらしい矛盾です。


17. 1800年 ― 負けた側が権力を渡した

1800年の大統領選挙でThomas Jefferson側が勝利します。今から見ると、「選挙で負けたんだから交代するのは当然だろ」と思います。でも新しい共和国では、これは当然ではありません。対立する政治勢力に権力を平和的に渡せるのか。これは国家としてかなり大きなテストです。Adams側からJefferson側へ政権が移る。内戦にならない。クーデターにもならない。この平和的政権交代は、アメリカ民主政治の重要な前例になります。


18. Jefferson ― 「小さな政府」と言いながら国土を倍にする

1801年、第3代大統領Thomas Jeffersonが就任します。Jeffersonは中央政府の権力拡大に警戒する側でした。ところが1803年、Louisiana Purchaseを行います。フランスのNapoleonから巨大な領土を購入する。現在のアメリカ中部にあたる広大な土地です。これによってアメリカの領土は一気にほぼ倍になります。

問題は「大統領にそんな巨大な土地を買う権限、憲法のどこに書いてあるの?」ということです。小さな政府を唱えていたJefferson自身が、国家の利益のためにはかなり大胆な権力行使をする。ここでも理念と現実がぶつかります。

そしてアメリカはここから、本格的に西へ向かいます。ただし、「西へ広がる」ということは、そこにすでに住んでいる先住民の土地へ入っていくということでもあります。次のPart3につながる話です。


19. MadisonとWar of 1812 ― またイギリスと戦う

1809年、第4代大統領James Madisonが就任します。MadisonはConstitutionの成立に大きく関わった人物でもあります。そのMadison政権下で、1812年、アメリカは再びイギリスと戦争になります。War of 1812です。

独立したのに、30年も経たないうちにまたイギリスと戦っている。この戦争ではBritish forcesがWashington, D.C.まで入り、Capitolや大統領官邸を焼きます。White Houseが焼かれた戦争です。

軍事的には単純な「アメリカ大勝利」とは言えません。でも戦争後、アメリカ国内では国家意識が強くなります。「British colonistsだった人々」が、だんだん、Americansになっていく。独立宣言だけで国民意識が完成したわけではありません。こういう経験を重ねながら作られていきます。


20. Monroe ― 「ヨーロッパはこっちに口を出すな」

1817年、第5代大統領James Monroeが就任します。そして1823年、Monroe Doctrineが示されます。大ざっぱに言えば、ヨーロッパ諸国は、これ以上西半球へ植民・介入してくるな。一方でアメリカもヨーロッパの争いには基本的に介入しない。ここまで来ると、Part1のアメリカとはかなり違います。

Part1では北米は、ヨーロッパ列強が勝手に争う場所でした。スペイン、フランス、イギリス。北米側は帝国競争の舞台だった。

ところがMonroeの時代になると、「この半球のことはヨーロッパが勝手に決めるな」と言い始める。

もちろん当時のアメリカには、それを全面的に軍事力で押し通せるほどの力はまだありません。それでも意識は変わっています。「イギリスから自由になりたい植民地」から、「自分たちの勢力圏を持つ国家」へ。アメリカが世界を見る方向が変わり始めます。


最初の5人の大統領を見ると、すでにアメリカの矛盾が見える

初代から5代目まで並べてみます。

George Washington
John Adams
Thomas Jefferson
James Madison
James Monroe

面白いのは、Adams以外の4人がVirginia出身だということです。Washington、Jefferson、Madison、Monroe。そしてこの4人はいずれも奴隷所有者でした。「自由」を掲げて独立した国家の初期政治エリートが、奴隷制社会の中心にもいた。これは後から突然発生した矛盾ではありません。建国時点から入っています。

さらに、13州をまとめるために強い政府が必要だと言いながら、強い政府を恐れる。自由市場を重視しながら、国家の利益のためには大胆な政策も取る。ヨーロッパの帝国支配から逃れた国が、今度は自分たちの領土を西へ広げていく。アメリカ史を見ていると、こういう矛盾が何度も出てきます。でも、それを「アメリカは矛盾している」で終わらせるとあまり面白くありません。むしろ、その矛盾を抱えたまま、どう制度を作り、どう理屈をつけ、どう前へ進んできたのか。そこを見る方が、今のアメリカが分かります。


Part2まとめ

アメリカは独立したから一つの国になったのではなく、独立してから一つの国になろうとした。

フレンチ・インディアン戦争の戦費負担から課税問題が起きる。課税問題が「誰に統治する権利があるのか」という問題になる。Boston Tea Partyが起きる。イギリスが締め付ける。戦争になる。それでも最初は和解しようとする。それが失敗し、『Common Sense』などを通して独立という考えが広がる。1776年、ついに独立を宣言する。でも植民地社会そのものもPatriotsとLoyalistsに割れている。そして戦争に勝ったら、今度は、「政府をどう作るんだ」という問題が始まる。政府を強くしないと国が回らない。でも政府を強くすると、革命した意味がなくなる。その間でConstitutionとBill of Rightsが作られます。WashingtonからMonroeまでの最初の5人の大統領を見るだけでも、現在のアメリカにつながるものがかなり出揃っています。政府不信。州と連邦政府の緊張関係。言論の自由。銃の権利。政党対立。平和的政権交代。領土拡大。そして「自由」を掲げながら奴隷制を抱えるという巨大な矛盾。

だから1776年を、「自由の国アメリカが誕生した年」だけで覚えると、その後が分かりにくくなります。むしろ、「自由とは何か、誰の自由なのか、政府にはどこまで権力を与えるのか、という250年続く議論が本格的に始まった年」と考えた方が、今のアメリカにつながります。

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