英語学習について語られるとき、よく出てくる問いがあります。
「ネイティブのようになれるのか?」
私はこの問いに、長年はっきり答えられませんでした。
なぜなら私は、人生の半分を日本で、半分をアメリカで生きてきたからです。それでも今なお、自分を「アメリカ人だ」と言い切ることはできません。
この立場から、英語学習の目的とは何なのか、そして言語を身につけるとはどういうことなのかを、私自身の意見としてまとめたいと思います。
外国人は日本人と同じレベルで日本語ができるようになるのか?
結論から言うと、理論上は可能だが、現実には極めて稀です。
歴史を振り返ると、ドナルド・キーン氏のように、日本文学を研究し、日本語で文章を書き、日本社会に深く関わった外国人学者は確かに存在します。しかし、彼ら自身も「日本人と全く同じ感覚ではない」と認めています。
特に日本語は、
- 読み(漢字・古典)
- 書き(文体・敬語)
- 話し(空気・省略)
- 聞き取り(含意・間)
が強く分かれており、幼少期に自然に身につく言語の直感を後から完全に再現することは、ほぼ不可能です。つまり、能力の問題ではなく、育った時間と言語環境の問題なのです。
日本人はアメリカで英語を完全に身につけられるのか?
こちらは、日本語よりも可能性が高いと感じています。
理由は、
- アルファベット言語であること
- 話し言葉と書き言葉の距離が近いこと
- 移民社会であり、非ネイティブが前提の文化であること
実際、幼少期から英語環境で育った日本人の中には、ネイティブと区別がつかない人もいます。
それでも多くの人は、
- 感情的な口論
- 冗談や皮肉
- 無意識の価値観
の部分で、「完全に同じではない」と感じ続けます。
日本語ではできるけど、英語ではできないこと
1. 曖昧な感情をそのまま共有する
日本語では「なんとなく」「ちょっと違う気がする」といった、グレーな感情を正確に伝えられます。英語では、どうしてもYes / Noを求められがちです。
2. 空気と立場を先読みして話す
相手との関係性や場の雰囲気を優先し、言葉を調整することは、日本語の得意分野です。
3. 沈黙や間で意味を伝える
言わないこと自体がメッセージになるのは、日本語ならではです。
英語ではできるけど、日本語ではできないこと
1. 意見や拒否を感情と切り離して伝える
英語では「I don’t agree」「This doesn’t work for me」が、人格否定になりません。
2. 主語を自分にして話す
英語ではIから話すことが自然で、自己主張が前提です。
3. 感情を言語化して整理する
frustrated、overwhelmed、uncomfortable など、感情を細かく説明できます。
私が考える「英語学習の本当の目的」
ここで、私自身の考えをはっきり書いておきたいと思います。
私が考える英語学習の本当の目的とは、
アメリカに住むこと、もしくはそのための努力をすること
です。
単に英語が話せるようになることではありません。
アメリカ国籍を取得し、アメリカの地で生き、そして最終的にはアメリカの地で死ぬこと。
それほどまでに、その国の社会と運命を共にする覚悟があって初めて、
「言語を学んだ」と言えるのではないかと、私は思っています。
この考えに影響を与えた人物の一人が、ドナルド・キーンです。
彼は日本語を研究対象として学んだだけでなく、日本国籍を取得し、日本社会の一員として生きる道を選びました。
それは「日本語ができる外国人」ではなく、日本と生きることを選んだ人だったと思います。
同じ意味で、英語学習もまた、
その言語が使われている土地で、生活し、税金を払い、失敗し、傷つき、老いていくこと
と切り離せないものです。
私は、最低でも5年はアメリカで生活しなければ、文化は理解できないと感じています。
- 言葉が通じない理不尽さ
- 移民として扱われる瞬間
- 医療、教育、仕事、子育てでの摩擦
こうした日常の積み重ねなしに、
英語圏の文化や価値観を「理解した」と言うことはできません。
英語が流暢でも、
住んだことがなければ、それは外から見た知識に留まります。
英語学習とは、
- 発音を真似ることでも
- ネイティブのように話すことでもなく
その国で生きる覚悟を持つこと。
私にとっての英語学習の目的は、
「話せるようになる」ことではなく、
「アメリカで生きる」ことそのもの
です。
「住めない人は英語を学ぶ意味がないのか?」という反論について
この考えを書くと、よく次のような反論が出てきます。
「では、海外に住めない人は英語を学ぶ意味がないのか?」
私の答えは、いいえ。ただし、目的と線引きが不可欠、です。
私は英語・日本語以外に、他2ヶ国語を理解できます。しかし正直に言えば、これらの言語について、私は「どこまでも極めたい」とは考えていません。そこには、私自身の中ではっきりした線引きがあります。
- 生活上、最低限困らない
- 必要な情報が取れる
- 相手の文化や感情を誤解しない
このレベルに達していれば、十分だと考えています。
この考え方は、子どもの言語教育において、より明確になりました。
子どもは、複数言語で育てていれば聞き取り(リスニング)は比較的自然に身につきます。しかし、
- 読み
- 書き
- 自分の考えを話す力
これらは、意識的に勉強しなければ身につきません。家庭で親が母国語を話していたとしても、それだけでは不十分です。これは、多言語環境で子育てをしていて強く実感した点です。だからこそ、私の家庭では、すべての言語を同じ熱量で教えることはしていません。
- 両親それぞれの母国にどれだけ家族がいるか
- 帰国する頻度や将来に住む可能性
- その言語で社会的責任を負う可能性があるか
こうした現実的な条件をもとに、「どの言語がより必要か」を判断し、線引きをしています。
つまり私にとって、言語学習とは、
- 住む覚悟がある言語 → 読み・書き・話・聞き取りを一生かけて磨く
- 住む予定のない言語 → 理解中心、目的限定で学ぶ
というものです。
どの言語も尊いですが、すべてを同じ深さで学ぶことは現実的ではありません。
英語学習も同じです。もし「アメリカで生きる」ことを目指すなら、中途半端な理解では足りない。しかし、そうでないなら、その人なりの十分な到達点があっていい。
この区別を意識することこそが、言語学習を長く、健全に続けるために必要だと、私は考えています。
日本を離れることに迷いがなかった理由
もう一点、私の英語学習観・移住観に大きく影響していることがあります。
それは、日本が私に何かをしてくれた、守ってくれた、報いてくれた、という実感がほとんどなかったという点です。
日本で生活していて、
- ここにいて良かった
- 日本社会に救われた
- この国の一員として大切にされた
そう感じた記憶は、正直に言って多くありませんでした。
だからこそ、「逃げ出す」という言い方は適切ではないかもしれませんが、日本を離れてアメリカに移住することに、抵抗や思い残しがなかったのだと思います。
これは、日本社会が悪いという単純な話ではありません。むしろ、相性の問題だったのだと、今は感じています。
学生時代を振り返ると、私の周囲には、
- 4年間アメリカで学び
- 語学力も身につけ
- それでも「やはり日本がいい」と言って帰国する日本人
が少なからずいました。
彼らにとって日本は、
- 帰る場所があり
- 安心できる社会があり
- 自分を受け入れてくれる感覚がある国
だったのだと思います。
一方で私にとっては、
「戻りたい場所が日本にあったか?」
と問われると、答えは正直に言ってノーでした。
この違いは、語学力や努力量では説明できません。
どの社会に自分が属していると感じられるか、という根本的な感覚の違いです。
だから私にとって英語学習とは、
- 便利なスキルを身につけることでも
- 視野を広げる教養でもなく
自分が生きられる社会を選び直す行為でした。
この感覚は、海外経験のあるすべての日本人に当てはまるものではありません。しかし、英語学習や移住を語るとき、この違いは非常に大きいと私は思っています。
※この意見は、人生の半分を日本、半分をアメリカで過ごした個人の実感に基づくものです。
