アメリカ大陸の歴史を語る上で、ヨーロッパ人との遭遇は避けて通れない大きな転換点です。Part 2では多様なネイティブ・アメリカンの文化圏について学びましたが、今回はヨーロッパの探検家たちが新大陸に到達し、その後の歴史を大きく動かしていく様子を見ていきましょう。壮大な航海の裏で、各国の思惑がどのように交錯し、後のアメリカ建国の土台が築かれていったのかを探ります。
新大陸を目指したヨーロッパ列強
15世紀後半、ヨーロッパでは東方への新しい交易ルートを開拓しようとする機運が高まっていました。オスマン帝国(Ottoman Empire)が地中海の交易路を支配し、香辛料などのアジア産品が高騰したためです。この動きが、結果的に「新大陸」発見へとつながります。
スペイン:コロンブスの航海と新世界の幕開け
1492年、イタリア人の探検家クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)は、スペイン女王イサベル1世(Queen Isabella I)の支援を受け、西回りでアジアを目指す航海に出発しました。そして彼がたどり着いたのが、現在のバハマ諸島に位置するヒスパニオラ島でした。コロンブスは生涯、そこをインドの一部だと信じていましたが、この出来事がヨーロッパ人によるアメリカ大陸への進出の口火を切りました。スペインはその後も勢力を広げ、1513年にはフアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)が「若返りの泉」を求めてフロリダ半島を探検し、この地をスペイン領と宣言しました。
イギリス:北米大陸への第一歩
スペインの成功に刺激されたイギリスも、すぐに行動を起こします。1497年、ヘンリー7世(Henry VII)はイタリア人探検家ジョン・カボット(John Cabot)を後援。カボットは現在のカナダ東岸ニューファンドランド島に到達し、イギリス人として初めてアメリカ大陸の土を踏みました。この航海は、後にイギリスが北米大陸の領有権を主張する重要な根拠となります。
フランス:北からのアプローチ
フランスも新大陸への関心を強めていました。1524年、フランソワ1世(Francis I)はイタリア人探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)を派遣。彼は現在のノースカロライナから北上し、ニューヨーク湾を発見しました。さらに1534年には、ジャック・カルティエ(Jacques Cartier)がセントローレンス川を遡り、先住民の言葉で「村」を意味する「カナタ(Kanata)」という言葉から、その地を「カナダ(Canada)」と名付けました。これがフランスによるカナダ植民の始まりです。
このように、16世紀を通じてヨーロッパの主要国が次々とアメリカ大陸に足跡を残し、領土獲得と資源をめぐる激しい競争の時代が幕を開けたのです。
イギリスの挑戦:ロアノーク植民地の謎
スペインやフランスに後れを取っていたイギリスは、16世紀後半になると本格的な植民地計画に乗り出します。その最初の試みが、多くの謎を残す「ロアノーク植民地」でした。
最初の試みとジョン・ホワイトの到着
1584年、エリザベス1世(Elizabeth I)の寵臣ウォルター・ローリー(Walter Raleigh)の支援のもと、探検家ジョン・ホワイト(John White)が現在のノースカロライナ州沿岸を調査しました。彼はその土地の豊かさや、穏やかな先住民(クロアトアン族:Croatoan)の様子をイギリスに報告。女王に敬意を表し、その地は「バージニア」と名付けられました。
この報告を受け、イギリス初の恒久的な植民地を築く計画が始動します。1587年、ジョン・ホワイトは自らが総督となり、自身の娘や孫娘(アメリカ大陸で生まれた最初のイギリス人、バージニア・デア:Virginia Dare)を含む117人の男女を率いて、再びアメリカ大陸へ渡りました。彼らが定住先に選んだのが、ロアノーク島でした。
しかし、入植者たちの生活はすぐに困難に直面します。食料は不足し、近隣のネイティブ・アメリカン部族との関係も悪化。助けを求めるため、ホワイトは物資調達のために一人イギリスへ戻ることを決意します。娘と孫娘を残して故郷へ向かう彼の心中は、察するに余りあります。
消えた入植者たち:「失われた植民地」
ジョン・ホワイトがイギリスに戻ると、予期せぬ事態が彼を待ち受けていました。当時、イギリスは強大なスペイン無敵艦隊との戦争(英西戦争)の真っ只中にあり、すべての船が軍事目的で徴用されていたのです。ロアノークへの補給船を出すことはできず、ホワイトは3年間も足止めされてしまいます。
1590年、ようやく戦争が終わり、ホワイトはロアノーク島に戻ることができました。しかし、彼がそこで見たのは、信じがたい光景でした。あれほど苦労して築いたはずの家々や砦はすべて解体され、117人の入植者の姿はどこにもありません。争った形跡や遺体は見当たらず、ただ一本の柵の柱に「CROATOAN」という単語が、そして近くの木に「CRO」という文字が刻まれているだけでした。
「クロアトアン」は、近くの島(現在のハッテラス島)の名前であり、友好的だったネイティブ・アメリカンの部族名でもありました。ホワイトは、入植者たちが安全を求めてその島へ移動したのだと考え、捜索に向かおうとしました。しかし、悪天候のため船は損傷し、捜索を断念せざるを得ませんでした。結局、彼は娘や孫との再会を果たせないままイギリスに帰国。その後、ロアノークの入植者たちの行方を知る者は誰もいませんでした。
彼らは一体どこへ消えたのでしょうか?
- クロアトアン族に合流し、同化したのか?
- 他の敵対的な部族に襲撃されたのか?
- 内陸を目指して移動中に命を落としたのか?
この「失われた植民地」の謎は、400年以上経った今もなお、アメリカ史における最大のミステリーの一つとして語り継がれています。
まとめ:次なる時代への序章
15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ列強による探検と領土獲得競争は、アメリカ大陸の運命を大きく変えました。スペイン、イギリス、フランスがそれぞれに足場を築こうとする中で、ネイティブ・アメリカンの社会は侵略、病気、そして文化の変容という未曾有の危機に直面します。
ロアノーク植民地の失敗は、イギリスにとって大きな痛手でしたが、彼らの北米への野望が潰えることはありませんでした。この経験を教訓に、イギリスはより周到な準備を進め、次なる植民地計画へと乗り出します。それが、アメリカ合衆国の原点となるジェームズタウンの建設です。
次回は、17世紀に入り、イギリスが恒久的な植民地を確立し、後の13植民地の基礎を築いていく過程について詳しく見ていきましょう。
