• 『Take Care of Maya』を観て思ったこと

    『Take Care of Maya』を観て思ったこと

    ――そして、その後の裁判 『Take Care of Maya』は、CRPSという非常に強い痛みを伴う病気と診断された少女Mayaと、その母Beata、父Jack、弟Kyleの家族が、治療を求めて病院に行った結果、逆に母親が「娘に不必要な医療をしているのではないか」「医療虐待ではないか」と疑われ、Mayaが州の保護下に置かれ、母子が引き離され、その後Beataが自殺し、家族が巨大病院を相手に民事裁判で争うまでを描いたドキュメンタリーだ。2015年の発症、2016年10月の入院、87日間の分離、2017年1月のBeataの死、その後の長い訴訟という流れで進んでいる。 この映画では「悪人」が分かりやすく置かれていない。病院側から見れば「虐待の可能性を疑った」と言えるし、家族側から見れば「助けを求めて病院に行ったら、子どもを奪われた」と言える。しかも、その両方にアメリカの制度が絡む。医療機関には児童虐待の疑いを通報する義務があり、通報それ自体は法律で強く保護される。一方で、通報が始点になって親子分離が起きると、その後は家族の側が自分たちの無実や正当性をすぐに回復するのが極端に難しくなる。この映画は、その制度の重さを、家族の側から見せる作品だ。 登場人物 Maya Kowalski Mayaはこの出来事の中心にいる少女で、2015年にCRPSと診断された。2016年10月にJohns Hopkins All Children’s Hospital(JHACH)に運ばれた時点で10歳だった。映画の中では「病気の子ども」というより、「痛みを訴えても信じてもらえない子ども」として映る場面が多い。控訴審の意見書でも、Mayaが2016年10月7日に10歳で、激しい痛みを訴えて救急外来に来たことが確認されている。 Beata Kowalski BeataはMayaの母で、看護師だった。ここはすごく重要だ。単なる「心配性の母」ではなく、医療知識のある人だった。だからこそ彼女は娘の痛みを軽く扱わず、標準的な治療で足りないと判断し、より強い治療に踏み込んでいった。 彼女はポーランド出身の移民で、英語は流暢に話すがアクセントが残っている。これは当然のことだが、アメリカではこの「アクセント」が無意識のバイアスとして働く場面がある。特に医療現場では、強く主張する親に対して「扱いにくい」「コントロールしてくる」といった印象が先に立つことがある。 映画の中では非常に強い母親として描かれるが、病院側にはその「強さ」が、後に「支配的」「不自然」「危険かもしれない」という方向に読まれていく。つまりBeataは、家族にとっては守る側の人間であり、制度の側からは疑いの中心に置かれた人間でもあった。 Jack Kowalski Jackは父親で、映画の中では一見すると静かな人物に見える。ただ、後から振り返ると、彼が一番「システムの現実」にさらされた人でもある。妻が疑われ、娘が保護下に入り、夫婦で病院に対抗しようとしても、法的にはどんどん手が届かなくなる。控訴審の記録にも、Jackが病院から「Mayaを連れて帰ろうとすれば逮捕される」と理解した経緯や、病院側が薬の離脱管理を理由に退院を認めなかったという趣旨の証言が出てくる。 Kyle Kowalski Kyleは弟で、映画の中ではまだ小さい子どもとして出てくる。事件当時は7歳前後の幼い年齢で、家の中で何が起きているのかを大人のように理解している存在ではない。この事件の「静かな被害者」として映る。姉がいない、母もいない、家の空気がおかしい。その事情の全部は分からなくても、家庭が壊れていることだけは子どもにも分かる。 だからこそ、後のVerdictでKyleが号泣する場面は、映画だけ見ていると一瞬の感情に見えるが、実際には「小さい時に家の中で何が起きていたか」を抱え続けてきた時間が噴き出した瞬間として見たほうがいい。 病院側で重要な名前 Sally Smith…

  • 映画『Tread』を見て分かったこと

    映画『Tread』を見て分かったこと

    Marvin Heemeyerは「赤穂浪士」ではない キルドーザーの話を最初に知った時、正直、最初はこう思った。 「行政にいじめられた男が、最後に町へ復讐した話なのか?」 アメリカでよくある「個人 vs 行政」「小さな事業主 vs 地元権力」の話に見える。しかも本人は職人で、溶接技術があり、自分でブルドーザーを戦車みたいに改造している。映画的には、かなり強い。 でも、映画を見て、事件の情報を追って、本人が残した音声メモまで聞くと、印象はかなり変わる。これは義憤の話ではない。 これは、少しお金と技術を持った白人男性が、自分の被害者意識を肥大化させて、最後に町を巻き込んだ破壊事件だった。 まず、あらすじを整理する Marvin Heemeyer は、コロラド州グランビーでマフラー修理店を営んでいた男だ。1990年代に土地を購入し、そこで商売をしていた。この「土地購入」が、すでに後の構図を決めている。彼はオークションでその土地を競り落とす。このとき競っていた相手が、後に隣接地にコンクリート工場を建てる側、つまりCody Docheff 周辺の関係者だった。 ここでまず押さえておくべきポイントは一つ。彼は最初、「ルールの中で勝った側」だった。そしてその後の彼の態度ははっきりしている。「俺が競り勝ったんだから文句言うな」 その後、隣接地にコンクリート工場の建設計画が出る。Heemeyerはこれに反対する。理由は、騒音、粉じん、アクセス、そして自分の商売への影響だった。ここだけ聞くと、彼に同情したくなる。「小さな店の横に大きな工場ができて、行政も企業側についた」そう見える。でも細かく見ると、そこまで単純ではない。 公聴会では反対意見も出たが、最終的に計画は承認された。コンクリート工場側も騒音や粉じん対策を示しており、行政が最初からHeemeyerを潰そうとしていた、というより、通常の土地利用・ゾーニング手続きが進んだだけに見える。少なくとも、映画を見た範囲でも、追加情報を追った範囲でも、「行政の悪意」はあまり感じない。 もう一つ大きな争点が行政との下水・衛生設備の問題だった。Heemeyerの土地には適切な下水接続がなく、古い簡易的な処理方法に頼っていた。町側からすれば、これは衛生・コード違反の問題になる。彼は下水接続や土地利用をめぐって揉め、罰金も受けた。ここも、彼の語りでは「行政にいじめられた」話になるが、実際には、事業者として必要なインフラ整備と法令遵守の問題だったと見る方が自然だ。…