アメリカ史Part 3のFeatured image。Lewis and Clark Expedition、Trail of Tears、Texas併合、California Gold Rush、Bleeding Kansas、Civil War、Lincoln、Emancipation Proclamationを描いた歴史コラージュ。

アメリカ歴史Part 3:自由の国が、自分たちの自由をめぐって戦争を始めた

Part 2では、イギリスの植民地だった13植民地が独立し、アメリカという国家を作っていくところまで見ました。Declaration of Independenceでは、“all men are created equal”と宣言した。Constitutionを作り、Bill of Rightsで自由や権利を守ろうとした。WashingtonからMonroeまでの初期大統領の時代には政治制度も整い、1803年のLouisiana Purchaseによって国土まで一気に広がります。

ここだけ見ると、若いアメリカが順調に成長していったように見えます。でも実際には、最初から二つの大問題を抱えていました。その土地には、すでにNative Americansが住んでいた。そして、「自由の国」が奴隷制を維持していた。しかもアメリカが西へ広がれば広がるほど、この二つの問題から逃げられなくなります。

ここで、現在の50州の地図はいったん忘れた方がいいです。1800年代前半のアメリカには、まだ「州」になっていない巨大なterritoriesが残っていました。つまり当時のアメリカは、完成した国ではなく、これからどんな国になるかを決めている途中だった。

新しいterritoryが州になるたびに、「そこでは奴隷制を認めるのか?」を決めなければならない。これは道徳だけの問題ではありません。土地。金。労働力。Cotton。州の権限。Federal Governmentの権限。Senateの議席。大統領選挙。全部つながっています。

最終的にアメリカは、この問題を政治では処理できなくなります。そして1861年、建国から100年も経たないうちに、自分たち同士で戦争を始めます。これがCivil Warです。


ざっくり年表(Part 3の地図)

1803年 — Louisiana Purchase
Franceから広大な土地を購入。アメリカの国土がほぼ倍になる。

1804〜1806年 — Lewis and Clark Expedition
新しく獲得した西部地域を連邦政府が本格的に調査。

1820年 — Missouri Compromise
Missouriを奴隷州、Maineを自由州として加盟させ、政治バランスを取る。

1830年 — Indian Removal Act
Andrew Jackson政権下で成立。

1836年 — TexasがMexicoから独立
Republic of Texas成立。

1838〜1839年 — Trail of Tears
Cherokeeを中心に強制移住。

1845年 — Texasをアメリカが併合

1846〜1848年 — Mexican-American War

1848年 — Treaty of Guadalupe Hidalgo
Californiaなど現在のSouthwestの広大な土地がアメリカ領になる。

1848年 — Californiaで金発見

1849年 — Gold Rush本格化

1850年 — Compromise of 1850
Californiaは自由州として加盟。Fugitive Slave Actを強化。

1854年 — Kansas-Nebraska Act

1850年代 — Bleeding Kansas
奴隷制賛成派と反対派が武力衝突。

1857年 — Dred Scott decision

1859年 — John Brown’s raid

1860年 — Abraham Lincolnが大統領選挙に勝利

1860〜1861年 — 南部諸州がUnionから離脱

1861年 — Fort Sumter。Civil War開戦

1863年 — Emancipation Proclamation

1863年 — Gettysburg

1865年 — Confederate側が事実上降伏

1865年 — Lincoln暗殺

1865年 — 13th Amendment

1868年 — 14th Amendment

1870年 — 15th Amendment

1877年 — Reconstructionが事実上終了

流れを一本にすると、

領土拡大
→ Native Americansの排除
→ 新territoriesでの奴隷制問題
→ 政治的妥協
→ 妥協崩壊
→ Civil War
→ 奴隷制廃止
→ Reconstruction

です。


1. Louisiana Purchaseで「西」が現実になる

1803年のLouisiana Purchase。Thomas JeffersonがFranceから巨大な領土を購入し、アメリカの国土はほぼ倍になります。ただし、「買った=全部把握していた」わけではありません。アメリカ政府自身も、その土地に何があるのか十分には分かっていませんでした。そこでJefferson政権が送り出したのが、Lewis and Clark Expeditionです。

1804年から1806年にかけて、Meriwether LewisとWilliam Clarkを中心とした探検隊がMissouri Riverをさかのぼり、Pacific Coastまで到達します。これは単なる冒険ではありません。地理を調べる。川や交通ルートを調べる。動植物を記録する。交易の可能性を見る。Native Nationsと接触する。

要するに、「買った巨大な土地を、アメリカ国家の視点から把握する」プロジェクトでした。この探検ではShoshoneの女性Sacagaweaも重要な役割を果たします。ただし、「誰も知らなかった土地を発見した」という言い方には注意が必要です。そこにはすでに人が住んでいました。アメリカ政府にとって未知だっただけです。ここからWestward Expansionが、地図上の話ではなく国家政策として現実になっていきます。


2. 「西部開拓」という言葉は、見る側で意味が変わる

Westward Expansion。日本語では「西部開拓」。アメリカ側から見ると、荒野を開く。農場を作る。町を作る。商売を始める。鉄道を伸ばす。という前向きな話です。でもNative Americans側から見ると、自分たちが住んでいた場所へ別の人口が大量に入ってくる話です。同じ出来事なのに、立場によって物語が逆になります。これがアメリカ史では何度も出てきます。


3. Manifest Destinyという、とても便利な考え方

1840年代には、Manifest Destinyという言葉が広まります。日本語では「明白な天命」などと訳されます。要するに、アメリカが北米大陸を西へ広がっていくのは、神から与えられた使命のようなものだという考えです。これが非常に便利でした。土地を取ることが、「土地が欲しい」だけではなく、「文明を広げる」「民主主義を広げる」「神から与えられた使命を果たす」という話になるからです。ここはアメリカを見る上で今でも面白いところです。国益と理念がセットになる。本人たちは理念を本気で信じている。でもその結果、自分たちにも利益がある。だから、「全部きれいごとだった」でもないし、「純粋に理想だった」でもない。両方です。


4. Indian Removal ― なぜNative Americansを移動させたのか

Westward Expansionを進めると、一つ大きな問題があります。土地が空いていない。Native Americansが住んでいる。特に南東部にはCherokee、Choctaw、Creek、Chickasaw、Seminoleなどがいました。そしてこの地域の土地は魅力的でした。現在のGeorgia、Alabama、Mississippi、Tennesseeなどです。Cottonを育てられる。農業ができる。そして白人入植者が欲しがる土地だった。Georgiaでは金まで発見されます。だからIndian Removalを、「文化の違う二つの民族が衝突した」だけで説明すると足りません。ものすごく現実的な理由があります。土地です。そしてその土地を使えば、金になる。1830年、Andrew Jackson政権下でIndian Removal Actが成立します。Mississippi Riverより東側に住むNative Nationsを、西側のIndian Territoryへ移す政策です。


5. Cherokeeはどこに住んでいたのか

Cherokeeの伝統的な居住地域は、現在でいうと、Georgia北部。Tennessee東部。North Carolina西部。Alabama北東部。Appalachian Mountains周辺です。そしてCherokeeは、よくある映画の「馬に乗ったPlains Indian」のイメージとはかなり違います。農業をする。町を持つ。政治制度を作る。独自の文字体系を持つ。新聞まで発行する。アメリカ型の憲法も作る。さらにGeorgia州との土地問題では、アメリカの裁判制度を使って自分たちの権利を守ろうとしました。つまり、アメリカ社会のルールにかなり合わせた。それでも土地を守れなかった。ここがCherokeeの話で非常に重要です。


6. Trail of Tears ― 「約束に従って移住した」わけではない

Trail of Tearsの中心は1838〜1839年です。原因はその前から続いていました。1835年、Treaty of New Echotaという条約が結ばれます。ここで注意したいのは、Cherokee Nationの多数派が納得して署名した条約ではなかったことです。一部のCherokeeが署名しましたが、主要な政治指導部と多数派は反対していました。それでもUnited States政府は条約を有効とし、Cherokee全体に適用します。そして1838年、軍による強制移住が始まります。現在のOklahoma方面まで、長距離を移動させられました。途中で病気、寒さ、飢えなどにより多数が死亡します。だからTrail of Tearsは、「Cherokeeがアメリカ政府と条約を結び、自発的に西へ移った」という話ではありません。かなり近い言い方をすれば、一部が署名した条約を連邦政府がNation全体に押しつけ、最後は軍事力で移動させた。という話です。


7. なぜOklahomaだったのか

ここは現在の地図を知っていると不思議です。「なんでTexasやNew MexicoではなくOklahoma?」理由があります。

当時のTexasはまだ現在のようなアメリカの州ではありません。1836年まではMexico領。その後はRepublic of Texasという独立国です。New MexicoもまだMexico側です。United Statesが自由に、「ここをIndian Territoryにします」と決められる場所ではありません。

一方で、現在のOklahomaあたりは、連邦政府がNative Nationsを移す場所としてIndian Territoryに指定していきました。つまり、東部の白人が欲しい土地からNative Americansを外し、西側へ移す。という発想です。


8. Oklahomaは文献であるような“Barren Prairies that nobody really wanted”だったのか

当時の説明では、「誰も欲しがらないbarren prairieへNative Americansを移した」というような表現が出ることがあります。でも、現在のOklahoma全体が不毛の荒れ地だったという意味ではありません。Oklahomaは東部と西部でも環境がかなり違います。東部は森林や川もあり、農業可能な地域があります。西へ行けばGreat Plains的な乾燥した土地が増えます。

むしろ、当時の白人入植者にとって、GeorgiaやAlabamaなどの土地ほど魅力的ではなかったという意味で理解した方が近いです。そして、この話にはかなり皮肉な続きがあります。最初は、「西のIndian Territoryをあなたたちの土地にします」と言う。ところが鉄道が伸び、人口が増え、白人入植者がさらに西へ行くようになると、「やっぱりその土地も欲しい」となります。

Indian Territoryも最終的には分割され、白人入植が進み、1907年にはOklahoma州になります。つまり、移住先として与えた土地も、永久に守られたわけではなかった。


9. Andrew Jacksonは酷いPresidentだったのか

Indian Removalについて見ると、かなり厳しく評価されて当然だと思います。ただしJacksonがアメリカ史で単純な「悪役」だけではないところも重要です。

Jacksonian Democracyという言葉があります。彼の時代には、政治参加がエリート層だけのものではなく、より広い白人男性へ広がっていきました。強いエリート政治への反発。National Bankとの戦い。「普通の白人男性」の政治参加。こういう面では民主主義の拡大を象徴するPresidentとして評価されてきました。

でもここで聞かなければいけないのは、誰のDemocracyだったのか?ということです。白人男性には政治参加を広げる。Native Americansは土地から排除する。そしてJackson自身もslaveholderでした。つまり、民主主義を広げた人物と、Indian Removalを推進した人物が同じ。これがアメリカ史の典型的な矛盾です。

ちなみにTrail of Tearsそのものが大規模に実施された1838年は、Jackson退任後のMartin Van Buren政権です。でもIndian Removalという政策を強力に推進し、その流れを作ったJacksonの責任が消えるわけではありません。


10. Seminoleは簡単には移動しなかった

FloridaのSeminoleはRemovalに強く抵抗します。代表的な人物がOsceolaです。Second Seminole Warは1835年から1842年まで続きました。Floridaの湿地やEvergladesを利用しながら抵抗し、United States側にとって非常に長く、費用もかかる戦争になります。さらにSeminole社会には、Black Seminolesと呼ばれる、逃亡奴隷やその子孫もいました。

だから彼らにとってRemovalは単なる「引っ越し」ではありません。移住先で再び支配されたり、奴隷状態へ戻される恐怖もありました。そしてSeminoleは完全にはFloridaから排除されませんでした。現在もFloridaにはSeminoleのコミュニティがあります。巨大な政府に対して、少数者が最後まで抵抗する。確かにこれはかなり「アメリカ人が好きそうな話」です。ただ皮肉なのは、アメリカの伝統的な西部劇では長い間、Native側ではなく白人開拓者側が「自由を守る側」として描かれてきたことです。


11. Plains Indiansは、Cherokeeとはかなり違う

Native Americansと聞いて、馬。Buffalo。Tipi。戦士。Great Plains。を思い浮かべる人は多いと思います。これは主にPlains Indiansのイメージです。Lakota、Cheyenne、Comancheなど。

でもNative Americans全体がこの生活をしていたわけではありません。Cherokeeは南東部の農耕・定住社会。Pueblo peoplesにはまた別の文化がある。Pacific Northwestも違う。アメリカの映画とWestern文化によって、Native American = Plains Indianというイメージがかなり強くなりました。

たとえば映画『Dances with Wolves』で中心になるNative Nationは、Lakota Siouxです。まさにPlains Indiansです。この映画が当時画期的だったのは、Native Americansを「主人公を襲う謎のIndian」ではなく、言語、家族、冗談、政治、人間関係を持つ普通の人間として長時間描いたことです。ただしLakotaをかなりロマンチックに描き、Pawnee側を悪役化するなど、今見ると単純化されている部分もあります。それでも古典的Westernとはかなり視点が違います。


12. Texasは最初からアメリカではない

これも現在の地図を見ると忘れやすい話です。TexasはもともとMexico領でした。Mexico政府はTexasへの入植を進めるため、アメリカ系移民も受け入れます。その結果、英語を話すアメリカ系入植者が大量に入っていきます。ところが政治、移民政策、そして奴隷制などをめぐってMexico政府との対立が深まります。Mexicoは奴隷制廃止の方向へ進んでいました。

一方、Texasに入ったアメリカ系入植者の中には奴隷労働を使ってcottonを生産する人々もいました。1836年、Texas側がMexicoから独立。有名なBattle of the Alamoなどを経て、Republic of Texasが成立します。つまりTexasは一時期、独立国家でした。その後1845年、United StatesがTexasを併合します。流れは以下の通り。

Mexico領
→ Republic of Texas
→ United States

Mexicoから見れば、「自分たちの領土だったTexasが独立し、それを隣のUnited Statesが取り込んだ」わけです。当然揉めます。さらに国境線をどこにするかでも対立し、1846年にはMexican-American Warが始まります。


13. Mexicoとの戦争でアメリカの地図が一変する

1848年、アメリカがMexican-American Warに勝利。Treaty of Guadalupe Hidalgoによって、Mexicoは広大な地域をUnited Statesへ割譲します。現在のCalifornia、Nevada、Utahの全域。さらにArizona、New Mexico、Colorado、Wyomingなどの一部。今のCaliforniaに住んでいると、「Californiaは当然アメリカ」という感覚になります。でもアメリカ領になったのは1848年です。意外と最近です。そしてその1848年、Californiaでもう一つ大事件が起きます。


14. Gold Rushはどこで始まったのか

1848年1月、James Marshallが金を発見します。場所は、South Fork of the American River。現在のColoma, Californiaです。Sacramentoから北東へ約60 miles。El Dorado County。Lake Tahoe方面へ向かうSierra Nevada foothillsの地域です。John Sutterのために建設していたSutter’s Mill付近で金が見つかります。

Californiaに住んだことがある人なら、「American Riverって、あのSacramentoへ流れている川?」と思うかもしれません。そのAmerican Riverです。Sierra Nevadaから流れ、Sacramento付近でSacramento Riverにつながります。金発見のニュースが広がり、1849年には世界中から人がCaliforniaへ押し寄せます。いわゆるForty-Ninersです。Gold Rush。これでCaliforniaの人口は爆発的に増えます。

そして1850年、Californiaは早くも州になります。ところが、ここでまた問題が出ます。Californiaは奴隷州なのか、自由州なのか。領土が増えるたび、結局この問題へ戻るのです。


15. Second Great Awakening ― なぜ宗教が奴隷制廃止につながるのか

この時期には政治と領土拡大だけでなく、アメリカ人の考え方にも大きな変化が起こります。それが、Second Great Awakeningです。18世紀末から19世紀前半に広がったProtestant Christianityの大規模な宗教復興運動です。

ただ、「宗教ブームがありました」だけでは何が重要なのか全然分かりません。ポイントは、人は変われる。という考えです。

大規模なcamp meeting。巡回説教師。感情的な説教。個人的なconversion。教会のエリートだけではなく、普通の人が、「自分の生き方を変えなければ」と考える。そこから一歩進みます。人間が改善できるなら、社会も改善できるのではないか。こうして宗教的覚醒が社会改革運動につながります。

酒が家庭を壊す。
→ Temperance Movement。

奴隷制は道徳的な罪ではないか。
→ Abolition Movement。

女性にも道徳的主体としての価値があるのに、権利がほとんどないのはおかしくないか。
→ Women’s Rights Movement。

教育を改善しよう。刑務所を改善しよう。貧困を減らそう。つまり流れは以下のように。

Religious Awakening
→ 個人を改善する
→ 社会も改善できる
→ 社会の悪をなくそう
→ Reform Movements

これが分かるとSecond Great Awakeningの意味がかなり見えます。これは単なる宗教史ではありません。Civil Warへ向かう思想面の地殻変動でもあります。


16. 奴隷制廃止運動が強くなる

Abolition MovementではFrederick Douglassが重要人物になります。Douglass自身が奴隷状態から逃れた人物です。だから彼が社会へ突きつけたのは、「奴隷制という制度についてどう思いますか?」という抽象論ではありません。そこで実際に人間が何をされているのか。という話です。またHarriet Beecher Stoweの『Uncle Tom’s Cabin』も大きな影響を与えます。

北部の一般市民にとって、「南部にある遠い制度」だった奴隷制が、家庭や人間関係を破壊する具体的な制度として見えるようになります。つまり奴隷制問題が、政治家だけの話ではなく、普通の人の道徳問題になる。これは南部から見るとかなり脅威です。


17. Territoryとは何なのか

現在のアメリカには50州があります。でも1850年代には、まだ州になっていない地域が大量にありました。これがterritoryです。Californiaは1850年に州になる。Minnesotaは1858年。Oregonは1859年。Kansasは1861年。Lincolnが大統領に当選した1860年でも、New Mexico Territory。Utah Territory。Washington Territory。Nebraska Territory。などが残っています。つまり当時の人が見ていたアメリカは、これから州がどんどん増える国でした。

そこで最大の問題になるのが、「新しい州では奴隷制を認めるのか?」です。


18. なぜ奴隷制が「州の数」の問題になるのか

南部経済はcottonなどを中心とするplantation economyに大きく依存していました。そしてその労働力として奴隷制が組み込まれていました。奴隷化された人々は、働かされる。売買される。家族を引き離される。法律上は財産として扱われる。南部社会の富のかなりの部分が、この制度と結びついています。

だから奴隷制廃止は、「考え方を変えましょう」という話ではありません。巨大な経済システムを壊す話でもありました。さらにterritoryが州になると、Senateの議席が増えます。アメリカのSenateは人口に関係なく、1州2議席。だから奴隷州が一つ増えれば、slaveholding South側にSenatorが2人増える。自由州が増えれば反対側が2人増える。つまり、Kansasで奴隷制を認めるかどうかが、Washingtonの政治権力に直結する。だから新しい州ができるたびに大騒ぎになります。


19. Missouri Compromise ― 問題を解決したのではなく、先延ばしした

1820年、Missouriを奴隷州として加盟させる問題で揉めます。そこで、Missouriを奴隷州。Maineを自由州。として同時に加盟させます。Senateのバランスを取るためです。さらにLouisiana Purchase領域の一定ラインより北では、原則として奴隷制を禁止します。これがMissouri Compromise。Compromise。妥協です。でも問題を解決したわけではありません。爆発する時期を先に延ばしただけ。この構造が何度も繰り返されます。


20. 逃げても自由になれない

1850年、Compromise of 1850が成立します。Californiaは自由州になります。その一方でFugitive Slave Actが強化されます。奴隷状態から逃げて北部へ来た人も、捕まえて南部へ返さなければならない。これで北部の人も、「自分は奴隷制に関係ありません」では済まなくなります。Federal Governmentが逃亡者の捕獲・返還に関与するからです。

ここが面白いところです。南部は後にStates’ Rightsを強く主張します。でもFugitive Slave Actについては、Federal Governmentの強い権限を利用して逃亡奴隷を返してほしいと要求する。つまり、「Federal Governmentは小さい方がいい」という理念だけで動いているわけではありません。

自分にとって必要なときはFederal powerを使う。ここでも、理念と利益はきれいに分かれません。


21. KansasはなぜそんなにViolentになったのか

1854年、Kansas-Nebraska Actが成立します。新しいterritoryで奴隷制を認めるかどうかを、住民自身に決めさせる。一見民主的です。でも両陣営はすぐに考えます。「それなら自分たち側の人間をKansasへ送り込めばいい」

Missouriなどからpro-slavery勢力が入る。New EnglandなどからFree-State supportersも来る。土地争い。選挙不正。二つの対立政府。武装集団。報復。さらに報復。こうして、Bleeding Kansasになります。

「後から来たpioneerが土地を暴力的に奪ったから」という要素もあります。ただそれだけではありません。Kansasが異常にviolentになったのは、国家全体で決着できない奴隷制問題を、Kansasという一地域で実力行使によって決めようとしたからです。いわばCivil Warの予行演習です。

だから、「Kansasのpioneersは特別に暴力的な民族だった」という話ではありません。まして現在のKansas住民がその子孫だから暴力的、という話にもなりません。160年以上の人口移動があります。ただ、Kansasという州の歴史には、国家分裂の最前線だった時代がある。これは覚えておくと面白いと思います。


22. Dred Scott ― Supreme Courtでも解決できなかった

1857年、Dred Scott decision。Dred Scottは奴隷状態に置かれていた黒人男性です。自由地域に住んだ経験を根拠に、自分の自由を求めて裁判を起こします。しかしSupreme Courtは、黒人は合衆国市民として連邦裁判所へ訴える権利を持たない。さらにCongressにはterritoriesで奴隷制を禁止する権限がない。という非常に大きな判断をします。

つまり、政治家でも決められない。Supreme Courtでも解決しない。むしろ対立がさらに深くなりました。現在でもSupreme Courtが社会の巨大問題を決めるたびに政治的対立が激しくなりますが、その構造はかなり古いです。


23. John Brown ― 奴隷制廃止のためなら武力を使う

1859年、abolitionistのJohn BrownがVirginiaのHarpers Ferryにある連邦武器庫を襲撃します。武器を奪い、奴隷反乱につなげることが目的でした。失敗します。Brownは逮捕され、処刑。ところが北部の一部では、彼を殉教者のように扱う人が出てきます。

南部から見ると、「北部の奴らは、奴隷を反乱させて俺たちを殺そうとしている」という恐怖になる。もう相手を、「同じ国にいる政策の違う人」として見られなくなってきます。相手の存在自体が脅威になる。こうなるとCompromiseはかなり難しくなります。


24. Lincolnは「奴隷を全部解放します」と言って当選したのか

1860年、Abraham Lincolnが大統領選挙に勝ちます。Lincolnは奴隷制を道徳的に問題だと考えていました。でも1860年の選挙で、「南部にある奴隷制を大統領権限で即日全部廃止します」と言って当選したわけではありません。非常に重要だったのは、奴隷制を新しい西部territoriesへ拡大させないという政策です。

ここで先ほどのterritoryの話が戻ってきます。1860年のアメリカには、これから州になる土地がまだ大量にあります。そこに奴隷制を広げられなければ、長期的には自由州が増える可能性が高い。そうなればSenateでも南部の政治力が落ちる。だから南部から見ると、「今すぐ奴隷を取り上げられなくても、このままではいずれ政治的に包囲される」となります。これがLincoln当選の衝撃です。


25. 最初に離脱したSeven Southern States

Lincoln当選後、最初にUnionから離脱したのは以下の7州です。

South Carolina。
Mississippi。
Florida。
Alabama。
Georgia。
Louisiana。
Texas。

その後Fort SumterとLincolnの兵員動員を受け以下の4州も離脱します。

Virginia。
Arkansas。
Tennessee。
North Carolina。

最終的に11州でConfederate States of Americaを形成します。

これを見ると、「自分たちの利益だけ考えて国を壊したのでは?」という印象を持つのも分かります。実際、特に最初の離脱州ではslaveholding economyと社会秩序を維持することが非常に重要でした。secession documentsを見てもslaveryは明確に中心問題です。

ただ、「金持ちのslaveholderだけが自分勝手に始めた戦争」だけでも説明できません。奴隷を所有していない白人南部住民も多数戦っています。州への忠誠。地域への忠誠。北部への恐怖。Federal Governmentへの反発。既存の人種秩序が崩れる恐怖。こうしたものが絡んでいました。だから、奴隷制が中心原因だった。でも、一人ひとりが戦った理由まで全部同じだったわけではない。この二つは両立します。


26. 奴隷州すべてがConfederacyへ行ったわけではない

ここも重要です。

Civil Warを、North = 自由州、South = 奴隷州と覚えると分かりやすい。でも完全には正しくありません。奴隷制を認めながらUnion側に残った4州があります。

Delaware
Maryland
Kentucky
Missouri

一般にBorder Statesと呼ばれます。

特にMarylandはWashington, D.C.のすぐ隣。MarylandまでConfederacyへ行けば、首都そのものが危険になります。KentuckyやMissouriも交通・軍事上重要です。だからLincolnにとってBorder StatesをUnionへ残すことは非常に重要でした。

ここから分かることがあります。Civil War開始時のUnionの目的は、「奴隷制廃止だけ」ではありません。Lincolnの最優先事項は、Unionを維持すること。国を壊さないことでした。


27. Civil Warが始まる

1861年4月。South CarolinaのFort Sumterで戦闘が始まります。Civil Warです。Union vs Confederacy。戦争が進むにつれて、Unionを守ることと奴隷制を終わらせることが徐々に重なっていきます。なぜなら奴隷制そのものがConfederacyの経済と戦争遂行能力を支えているからです。さらに奴隷化されていた人々自身が、Confederate地域からUnion側へ逃げ始めます。戦争の性格が変わっていきます。


28. Emancipation Proclamationは「全米の奴隷を全部解放した」わけではない

1863年1月1日。LincolnのEmancipation Proclamationが発効します。日本語では奴隷解放宣言。名前だけ聞くと、「Lincolnがアメリカ中の奴隷を一気に解放した」ように聞こえます。実際には違います。

基本的な対象は、Unionに対して反乱状態にあるConfederate地域の奴隷です。つまりUnion側に残ったBorder Statesの奴隷は、この宣言だけでは一斉に解放されません。なぜか。Emancipation Proclamationは道徳宣言であると同時に、戦時中の軍事政策だからです。

LincolnはCommander in Chiefとして、反乱地域の奴隷制度をConfederacyの戦争遂行能力の一部として扱いました。奴隷労働をConfederacyから奪う。Unionへ逃げてくる人を受け入れる。黒人男性をUnion Armyに参加させる。つまり、奴隷解放と軍事戦略が一体化する。ここでも、理想か、戦略か。ではありません。両方です。


29. 「北部の黒人 vs 南部の白人」ではない

Emancipation Proclamation以降、多くの黒人男性がUnion ArmyやNavyに参加します。最終的には約20万人規模です。でも、北部黒人 vs 南部白人という戦争ではありません。Union Armyの大多数は白人兵です。その中に黒人兵が大量に加わる。そして黒人兵の中には北部生まれのFree Blacksだけでなく、南部の奴隷状態から逃れてきた男性も多数いました。

だから実際は、Union Army = 圧倒的多数の白人兵 + 黒人兵Confederate Army = 圧倒的多数の白人兵です。

さらに南部にもUnion支持の白人がいました。北部にも強い人種差別がありました。だから人種だけで二分するとCivil Warは見えません。ただし、黒人自身が武器を持って、自分たちの自由をめぐる戦争に参加したという変化は非常に大きいです。


30. Gettysburg ― 1776年の言葉が戻ってくる

1863年、PennsylvaniaのGettysburgで大規模な戦闘が起こります。Civil War最大級の転換点です。その後Lincolnが行ったGettysburg Addressは非常に短い演説ですが、アメリカ史ではものすごく重要です。

LincolnはCivil Warを、単に、「南部をUnionへ戻す戦争」としてではなく、1776年の“all men are created equal”という約束を、この国が本当に実現できるのかという戦争として言い直します。

Part 2がここで戻ってきます。Declaration of Independenceを書いた1776年。その87年後、「あなたたち、自分でall men are created equalって書いたよね?」と国家自身に突きつけられるわけです。アメリカ史では、このパターンが何度も出ます。


31. 戦争には勝った。でもLincolnはすぐ殺される

1865年4月。Confederate General Robert E. Leeが、Union General Ulysses S. GrantにAppomattox Court Houseで降伏します。Civil Warは事実上終わります。そして数日後。LincolnがWashington, D.C.のFord’s TheatreでJohn Wilkes Boothに撃たれます。翌朝死亡。つまり、戦争には勝った。でも戦後をどう作り直すかという一番重要な瞬間にPresidentが殺された。ここからReconstructionが始まります。


32. Emancipation Proclamationではなく、13th Amendmentで奴隷制そのものを終わらせる

1865年。13th Amendmentが成立します。これによって、奴隷制はアメリカ全体で原則として廃止されます。ここは区別しておいた方がいいです。

Emancipation Proclamation
= Civil War中の反乱地域を対象とした解放政策

13th Amendment
= United States全体で奴隷制そのものを原則禁止

でも、「今日からあなたは奴隷ではありません」と言われたところで、問題は終わりません。土地がない。金がない。教育機会も限られている。政治権力もない。そして昨日まで自分を所有していた人々と同じ社会で暮らす。自由になったことと、社会的に対等になったことは別です。


33. 13th、14th、15th Amendment

Reconstruction期には非常に重要な憲法修正が続きます。

13th Amendment — 奴隷制廃止

14th Amendment — 市民権、Due Process、Equal Protection

15th Amendment — 人種などを理由に投票権を否定することを禁止

特に14th Amendmentは現在のアメリカでも非常に重要です。Civil Rights。Equal Protection。州政府と個人の権利。Supreme Court cases。現在のアメリカ政治や法律の議論にも頻繁に出てきます。つまりCivil Warは1865年に終わったけれど、Civil Warが作った憲法問題は今でも生きている。


34. Reconstruction ― 戦争に勝つより難しい「その後」

南部をどうUnionへ戻すのか。元奴隷の権利をどう守るのか。南部の政治をどう再建するのか。これがReconstructionです。一時期、黒人男性が投票し、州議会やCongressにも進出します。これはものすごい変化です。でも激しい反発が起きます。Ku Klux Klanなどの白人至上主義組織。黒人投票者への暴力。選挙妨害。元の社会秩序を取り戻そうとする動き。1877年頃には連邦政府によるReconstructionが事実上終了。その後、南部ではJim Crowと呼ばれる人種隔離・差別制度が強化されていきます。

つまり、Civil Warに勝ったから人種問題が解決したわけではない。奴隷制という法律上の制度は壊した。でも奴隷制を支えていた社会構造、人種観、経済格差まで一緒に消えたわけではありません。この続きが、後のCivil Rights Movementにつながります。


今のアメリカにつながっているもの

Civil Warは160年以上前です。でもアメリカでは、まだ意外なほど終わっていません。Confederate flagをどう見るか。南軍指導者の銅像を残すのか。States’ Rightsとは何を意味するのか。Voting RightsをどこまでFederal Governmentが守るのか。14th Amendmentをどう解釈するのか。人種間の経済格差はどこから来たのか。Native American reservationsとは何なのか。Tribal sovereigntyとは何なのか。Federal Governmentと州政府のどちらが何を決めるのか。このあたりは全部、Part 3まで戻ってきます。

だからCivil Warを、「Lincolnが奴隷を解放した昔の戦争」だけとして覚えると、現在のアメリカが見えません。むしろ、自由を掲げて作った国が、“その自由は誰のものなのか”をめぐって一度壊れた。と考えた方がいいと思います。


Part 3まとめ

Part 3を一言でまとめるなら、アメリカは西へ広がるほど、建国時に隠していた矛盾から逃げられなくなった。です。そして現在の50州の地図を頭から外すことが大事です。

当時のアメリカには、「これからアメリカになる土地」が大量にありました。その土地を誰から取るのか。誰が住むのか。奴隷制を認めるのか。新しい州がWashingtonでどちらの政治勢力につくのか。全部がつながっています。土地を広げればNative Americansとぶつかる。Mexicoから領土を取れば、新しいterritoriesが増える。territoryを州にすれば、奴隷制を認めるか決めなければならない。奴隷制を制限すれば、南部の経済と政治力が揺らぐ。奴隷制を維持すれば、“all men are created equal”という建国理念との矛盾が大きくなる。政治家たちは何度もCompromiseを作りました。でも問題そのものは消えません。

最後には政治で処理できなくなり、アメリカ人同士が殺し合います。Civil Warです。そして現実は、教科書的な二択より複雑でした。奴隷州すべてがConfederacyへ行ったわけではない。Union側にも奴隷州があった。Lincolnは最初から全米の奴隷を即時解放すると言って戦争を始めたわけではない。Emancipation Proclamationも全米の奴隷を一度に解放したものではない。

それでも戦争が進む中で、Unionを守る戦争が、奴隷制そのものを終わらせる戦争へ変わっていった。Unionは勝ちます。

13th Amendmentで奴隷制が廃止される。14th、15th Amendmentsによって法律上のアメリカも大きく作り直される。

でも社会はリセットされません。ここがPart 3の最後に一番残しておきたいところです。法律を変えることと、社会を変えることは別です。このズレが、その後100年以上続きます。

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