Janis Joplin、Karen Carpenter、Whitney Houston、Amy Winehouse、Aretha Franklin、Alicia Keys、Céline Dionの7人の名前を配置した歌姫特集のアイキャッチ画像

私にとって「歌姫」とは誰なのか——7人の女性Singerを改めて聴いてみた

「歌姫」って何だろう。歌がうまい女性Singerなら、いくらでもいる。Recordをたくさん売った人もいる。Hit曲を何十曲も持っている人もいる。でも、私が「歌姫」という言葉から思い浮かべるのは、少し違う。他の歌手が憧れる歌手。後から出てきた一流のSingerが、「あの人に影響を受けた」「あの人のように歌いたかった」と言うような人。そして、ただ歌がうまいだけではない。声なのか、歌い方なのか、表現なのか。その人にしかないものがある。

そんな基準で選んだのが、この7人だ。
Janis Joplin、Karen Carpenter、Whitney Houston、Amy Winehouse、Aretha Franklin、Alicia Keys、Céline Dion。

もちろん、歴代最高の女性Singerを客観的に順位づけするつもりはない。私自身が音楽を聴き、Live映像を見てきた中で、どうしても外せなかった7人だ。27歳で亡くなった人もいる。32歳で亡くなった人もいる。70代まで歌い続けた人もいる。人生は全然違う。でも、歌い始めた瞬間に誰だか分かる。そこは全員同じだ。


1. Janis Joplin —— 個性が爆発したArtist

私はJanisはSingerというより、Artistに近いと感じる。1943年、Texas州Port Arthur生まれ。Janisが10代だった1950年代のTexasは、人種隔離が残り、女性に対しても「こうあるべき」という考え方が強い社会だった。でもJanisは、そこにうまく収まらなかった。10代からBessie SmithやBig Mama ThorntonといったBlack Blues Singerに惹かれ、絵を描き、周囲の女の子とは違う格好をする。人種差別にも批判的だった。その個性は、地元では必ずしも歓迎されなかった。高校時代から周囲との違いに苦しみ、いじめも経験している。

高校を出て、大学へ。そしてSan Franciscoへ

Janisは1960年にThomas Jefferson High Schoolを卒業した。その後Lamar State College of Technologyに短期間通い、1962年にはUniversity of Texas at Austinに入学する。大学ではArtを学んでいたが、卒業はしていない。この大学時代に起きたのが、悪名高い「Ugliest Man on Campus」の事件だ。男子学生たちがJanisを、容姿を侮辱する学内企画の候補にした。今なら完全にBullyingだと思う。

ただ、JanisはTexasを出てSan Franciscoへ行ったら、すぐに成功したわけでもない。1963年頃からBay AreaでFolkやBluesを歌い始めたものの、Drugなどで健康を崩し、一度Texasの実家へ戻っている。それでも音楽を諦めなかった。1966年、San FranciscoのRock Band、Big Brother & the Holding Companyから声がかかる。Janisは再びCaliforniaへ向かった。

受け入れられなかった個性が、表現になった

1960年代のSan FranciscoはCountercultureの中心地だった。Hippie Culture、反戦運動、既存の価値観への反発。もちろん自由で理想的な世界だったわけではない。それでも、保守的なTexasでは浮いてしまったJanisの個性を、音楽として受け止める場所があった。Big Brother & the Holding Companyに入ってから、その個性が一気に爆発する。私はJanisを見ていると、「抑えていた感情を全部吐き出した」というより、それまで受け入れられなかった個性が、ようやく表現する場所を見つけたという感じがする。声、服、動き、歌い方。きれいに歌おうとしない。女性らしく見せようともしない。誰かの型に入ろうとしない。それまで「違う」と言われてきたものが、そのままJanis JoplinというArtistになった。

私がJanisを知ったのはWoodstockだった

Woodstockの映像を見ていて、なんかかっこいい。味のある歌を歌う人がいるなぁ。そんなところから始まった。そこからいろいろ聴くようになり、特に好きになったのが“Piece of My Heart”。

JanisのCareerと最後

1967年(24歳)、Monterey Pop Festival。ここでの“Ball and Chain”がJanisを一気に知らしめた。この曲はJanisのOriginalではなく、Blues SingerのBig Mama Thorntonの曲だ。Black Bluesに惹かれたTexas出身の白人女性が、その音楽を自分の表現にしてRock Festivalで歌う。Janisという人を考えると、ここも面白い。

1968年(25歳)、Big Brother & the Holding CompanyのAlbum『Cheap Thrills』が全米No.1。“Piece of My Heart”はBillboard Hot 100でNo.12。

1969年(26歳)、Big Brotherを離れ、Kozmic Blues Bandで活動。Woodstockにも出演する。

1970年(27歳)、Full Tilt Boogie BandとAlbum『Pearl』を制作していたが、10月4日、Hollywoodのホテルで亡くなる。死因はHeroinのOverdoseだった。

翌1971年に発売された『Pearl』は全米No.1。“Me and Bobby McGee”も全米No.1になる。本人はもういなかった。

27 Club

Janisは、いわゆる「27 Club」の一人でもある。27歳で亡くなった有名Musicianを後からまとめて呼ぶ俗称だ。Jimi Hendrix、Jim Morrison、Kurt Cobain、そして後で出てくるAmy Winehouse。Janisを見ると、どうしても思ってしまう。まだ今じゃなかっただろう。

『Janis: Little Girl Blue』

Janisについて知りたい人には、2015年のDocumentary『Janis: Little Girl Blue』を勧めたい。私がこれを見て感じたのは、伝説のRock Singerというより、普通の女の子が、受け入れられること、愛されることを求めてStruggleしていたということだった。Artistとしてステージに立つと、誰にも合わせないJanis Joplinが爆発する。でも一人の女性としては、受け入れてほしい、愛されたいという気持ちが残っていた。その二つが同じ人の中にあった。

聴いてほしい2曲

Piece of My Heart

Ball and Chain — Monterey Pop Festival 1967

特に“Ball and Chain”を見ると、「上手いSinger」という言葉では足りない。Janis Joplinという個性そのものがPerformanceになっている。だからJanisを最初に置きたい。


2. Karen Carpenter —— あの声を聴けば分かる

Karen Carpenterは1950年、Connecticut州New Haven生まれ。兄Richardは1946年生まれで、幼い頃からPianoの才能を見せていた。Richardは10代の頃、YaleでPianoの指導も受けている。1963年、Carpenter一家はCalifornia州Downeyへ引っ越した。DowneyはLos Angelesの郊外だ。なぜわざわざConnecticutからDowneyへ移ったのか。理由の一つは、Richardの音楽的才能を伸ばすためだった。Los AngelesにはRecording Studioも音楽業界もある。父親がConnecticutの寒い冬を嫌っていたことも、移住の理由として伝えられている。つまり、Downeyそのものが音楽の中心地だったわけではない。LAの音楽業界に近い郊外へ移ったということだ。

Karenは最初、Drummerだった

Downeyへ来たKarenは13歳。Downey High SchoolでMarching Bandに入り、打楽器に興味を持つ。やがてDrumsに夢中になった。15歳頃には、Richard Carpenter TrioでDrumsを担当する。RichardはPiano、KarenはDrums。Jazzを中心に演奏していた。この時点でKarenは、世界的な女性Vocalistになるつもりだったわけではない。むしろ本人はDrummerとして演奏することが好きだった。ところが歌わせてみたら、あの声だった。

16歳ですでにRecordを出していた

1966年、Karenが16歳の頃。Studio MusicianのJoe Osbornが彼女の歌声に注目し、録音を手伝う。小さなLabelからSolo Singleも発売された。しかし売れなかった。同じ年、Richard Carpenter TrioはHollywood BowlのBattle of the Bandsで優勝し、RCA Recordsとの契約にもつながった。ところが、その契約からも大きな成功は生まれない。その後、RichardとKarenはSpectrumなどのGroupで活動を続けた。そして1969年、A&M Recordsと契約。最初のAlbum『Offering』を発売するが、こちらも大Hitにはならなかった。

1970年、ようやくBreakthrough

転機になったのが、Herb Alpertが勧めた“(They Long to Be) Close to You”だった。RichardのArrangementとKarenの声。この組み合わせが、ようやく大衆に届いた。1970年、Karenは20歳。“Close to You”が全米No.1。ここからCarpentersのHitが続く。

ほとんど全部Hit曲じゃないか?

1970年(20歳)

  • “Close to You” — 全米No.1
  • “We’ve Only Just Begun” — No.2

1971年(21歳)

  • “For All We Know” — No.3
  • “Rainy Days and Mondays” — No.2
  • “Superstar” — No.2

1972年(22歳)

  • “Hurting Each Other” — No.2
  • “Goodbye to Love” — No.7

1973年(23歳)

  • “Sing” — No.3
  • “Yesterday Once More” — No.2
  • “Top of the World” — No.1

1974〜75年(24〜25歳)

  • “Please Mr. Postman” — No.1
  • “Only Yesterday” — No.4

改めて並べると、本当にすごい。しかも、これだけのRecordingをしながらTourも続けていた。

その裏で身体が壊れていった

KarenはAnorexia nervosa、神経性やせ症に苦しむようになる。ただ、「芸能界に痩せろと言われたから摂食障害になった」という単純な話ではない。Karenは若い頃から体重を気にしていた。そこに、若い女性Starとして常に見られる生活が重なる。写真、TV、雑誌、Tour。世界中から容姿を評価される。食事制限は次第に極端になり、身体は深刻なダメージを受けていった。

Tom Burrisとの結婚

1980年、30歳のKarenはThomas “Tom” Burrisと結婚する。BurrisはKarenより年上の不動産開発業者で、離婚歴があり、前の結婚で子供もいた。Karenは家庭を持ち、子供を望んでいた。ところがBurrisは以前Vasectomy、精管切除術を受けていた。Karenが結婚前にどの時点でその事実を知ったのかについては、伝記や関係者の証言に頼る部分があり、本人たちの直接証言だけで断定するのは難しい。ただ、二人の間で子供を持つことが大きな問題になったのは確かだ。

さらに伝記では、BurrisがKarenに金銭を要求したことや、彼女の身体を侮辱するような言葉を浴びせたという関係者の証言も紹介されている。Karenが望んでいた家庭と、実際の結婚生活は大きく違っていた。1982年、Karenは離婚を申請する。

32歳で終わった人生

1978年(28歳)、Carpentersとして最後のConcert。ただし音楽をやめたわけではない。

1979年(29歳)、New YorkでSolo Albumを録音。生前には発売されなかった。

1981年(31歳)、Richardと『Made in America』を発売。“Touch Me When We’re Dancing”がTop 20に入る。

1982年(32歳)、New Yorkで摂食障害の治療を受ける。同年12月には学校行事で歌った。これが最後の人前での歌唱になった。

1983年2月4日。Downeyの両親の家で倒れ、亡くなる。32歳だった。長年の摂食障害による身体へのダメージが、心臓に深刻な影響を与えていた。

Karenの声

KarenのすごさはShoutでも高音でもない。低い。静か。力んでいない。なのに、一声でKaren Carpenterだと分かる。これはSingerにとって、簡単に真似できることではないと思う。今回選ぶのは“Superstar”。Karen CarpenterがどういうSingerだったのか。私はこの曲を聴けば、かなり分かると思う。

Superstar


3. Whitney Houston —— 歌唱力の基準になった人

Whitney Houstonは、何もないところから声一本で成り上がったSingerではない。むしろ逆だ。1963年、New Jersey州Newark生まれ。母Cissy HoustonはGospel/R&B Singer。Dionne Warwickは従姉。Aretha FranklinもHouston家と親しかった。Whitney自身もChurchで歌い、10代ですでにProfessionalのBacking Vocalをしていた。音楽の世界の真ん中から出てきた人だ。

Clive Davisとの出会い

1983年、19歳のWhitneyはArista Recordsと契約する。その才能を見いだした中心人物がClive Davisだった。ただ、契約してすぐにDebutしたわけではない。曲を選び、Producerを探し、Whitneyの声をどう世に出すかを慎重に準備した。1985年、21歳でDebut Album『Whitney Houston』を発売する。最初から巨大Hitになったわけではないが、Singleが次々と成功し、Albumも全米No.1に上がった。“Saving All My Love for You”。“How Will I Know”。“Greatest Love of All”。この3曲がすべて全米No.1。

7曲連続No.1

1987年(23歳)、2枚目のAlbum『Whitney』。女性Artistとして初めてBillboard 200に初登場No.1を記録した。“I Wanna Dance with Somebody”。“Didn’t We Almost Have It All”。“So Emotional”。“Where Do Broken Hearts Go”。デビューから7曲連続でBillboard Hot 100のNo.1を獲得した。ここまで来ると、ただの人気Singerではない。

1991年のSuper Bowl

1991年、27歳。湾岸戦争の最中に開催されたSuper Bowl XXV。Whitneyは“The Star-Spangled Banner”を歌った。

National Anthem

私にとってWhitney Houstonを象徴する映像の一つだ。このとき私は単純に、この人が一番歌が上手いんじゃないか。と思った。今でもNational AnthemのPerformanceとして何度も参照される。注記: 1991年のSuper BowlでのNational Anthemは、事前に録音されたWhitneyの歌声を会場で流し、それに合わせて本人が歌う形式だった。つまり、当日の完全なLive Vocalではない。ただし、録音されているのはWhitney本人の歌声であり、その歌唱力を評価するうえで、このPerformanceの価値が変わるわけではない。

『The Bodyguard』

1992年、29歳。Bobby Brownと結婚。同じ年に映画『The Bodyguard』が公開される。“I Will Always Love You”は14週連続全米No.1。Soundtrackは世界で4000万枚を超える規模で売れた。ただ今回、私が選びたいのは“I Have Nothing”。

I Have Nothing

WhitneyというSingerを聴くなら、私はこの曲が好きだ。

そして1993年には娘Bobbi Kristinaが生まれる。

声が変わっていった

2000年代に入ると、Drugの問題、Bobby Brownとの結婚生活、体調、そして声の変化が表面化する。突然壊れたのではない。時間をかけて崩れていった。

2007年、Bobby Brownと離婚。

2009年にはAlbum『I Look to You』で本格復帰し、Billboard 200初登場No.1を記録する。もちろん、20代のWhitneyの声がそのまま戻ったわけではない。それでも戻ろうとした。

2012年2月11日、48歳。Beverly Hilton Hotelの浴槽で亡くなった。直接の死因は事故による溺死で、心臓疾患とCocaine使用が死亡に寄与した。

Whitneyをもう少し知りたいなら

映画『Whitney Houston: I Wanna Dance with Somebody』(2022年)。音楽一家、Clive Davis、Robyn Crawford、Bobby Brown、娘Bobbi Kristina、Drugの問題など、Whitneyの人生が描かれている。Robyn Crawfordは後に、Whitneyと若い頃に恋愛・性的関係があったことを明らかにしている。ただ、それだけでWhitneyのSexualityをこちらから一つのLabelに決める必要はないと思う。

そしてWhitneyは、後のSingerにとって巨大な基準になった。Lady Gagaは2011年のGrammyで、“Born This Way”を書いたとき、Whitneyが歌う姿を頭の中で想像したと話している。すでにSuperstarだったLady Gagaが、自分の曲を頭の中で歌わせたのがWhitney。これが、私が考える「歌姫」にかなり近い。


4. Amy Winehouse —— 人生までライブに出てしまう

Amy Winehouseはイメージが強すぎる。Beehive Hair。太いアイライン。Tattoo。Alcohol。Drug。27歳での死。でも私にとってAmyは、何よりLiveでめちゃくちゃ歌が上手いSingerだ。

Jazzが好きだった女の子

Amyは1983年、London生まれ。子供の頃からJazzに親しんでいた。12歳頃にはSylvia Young Theatre Schoolに通い、歌だけでなく演技も学んでいる。10代になるとGuitarを弾き、自分で曲を書くようになった。Amyは誰かが用意した曲を上手に歌うだけのSingerではなかった。自分の言葉で曲を書ける人だった。

16歳で才能を見つけられる

16歳頃、友人でSingerのTyler JamesがAmyの存在をManagerのNick Shymanskyに紹介する。NickがDemoを聴き、Amyの才能に注目した。ここからProfessional Careerが動き始める。2002年、19歳頃には19 Managementと契約し、Island Recordsとの契約につながる。そして2003年、20歳でDebut Album『Frank』を発売する。Jazz、Soul、Hip-Hopが混ざった音楽だった。“Stronger Than Me”は大Hitにはならなかったが、Songwritingを評価され、Ivor Novello Awardを受賞する。つまりAmyは、23歳で突然現れたわけではない。20歳の時点で、すでに自分の音楽を持っていた。

『Frank』から『Back to Black』へ

2005年頃、AmyはBlake Fielder-Civilとの激しい恋愛と別れを経験する。この経験が、次のAlbumの曲作りに大きく影響した。ProducerのMark RonsonやSalaam Remiとともに、1960年代のSoulやGirl Groupの音楽を取り入れていく。

そして2006年、23歳。『Back to Black』。“Rehab”。“You Know I’m No Good”。“Back to Black”。“Tears Dry on Their Own”。“Love Is a Losing Game”。世界的な成功になる。Jazzを歌っていた20歳のAmyが、23歳で自分の恋愛や痛みまで音楽にしてしまった。そして、それが世界中に届いた。

成功と同時に崩れていく

2007年、Blakeと結婚。この頃にはHeroinやCrack Cocaineへの依存も深刻になっていた。Concertの中止。Rehab。体調不良。Tabloid。一方でAlbumは売れ続ける。

2008年、24歳。Grammyで一晩5部門を受賞。“Rehab”でRecord of the Year、Song of the Year。Best New Artist。『Back to Black』でBest Pop Vocal Album。人生が崩れていった時期と、世界がAmyを本物のSingerとして認めた時期が重なっている。

2009年、Blakeと離婚。HeroinやCrackからは距離を置くようになったが、Alcoholの問題は残った。ここはAmyの最後を理解するうえで重要だと思う。AmyはHeroinのOverdoseで亡くなったわけではない。

2011年、27歳

2011年6月、SerbiaのBelgrade。最後のFull Concert。まともにPerformanceできる状態ではなく、その後Tourは中止になる。

7月23日、London・Camdenの自宅で亡くなっているのが見つかった。27歳。死因はAlcohol poisoning、急性アルコール中毒。禁酒期間を経た後に大量のAlcoholを摂取していた。

そしてまた27 Club。JanisとAmy。時代も音楽も全然違う二人が、同じ27歳で終わった。

Documentaryを見ても印象は変わらなかった

Amyについて知りたければ、Documentary『Amy』(2015年)がある。私も見た。でも見終わっても、最初にLive映像を見たときのAmyへの印象はあまり変わらなかった。むしろ、Liveで感じていたものの理由が後から埋まったという感じだった。Amyの場合、ストーリーがライブで完結してしまう。それくらい強い。

今回選ぶ2本

Back to Black

Amyは一人で静かに歌うより、私は後ろにBandがいるほうが好きだ。Bandが鳴る。Backup Singerがいる。その真ん中でAmyが歌う。それだけで全部Amyになる。

Love Is a Losing Game

“Rehab”のほうが有名だし、“Back to Black”のほうが代表曲として分かりやすい。でもAmyという人を一曲聴くなら、“Love Is a Losing Game”なのかもしれない。Documentaryを見てもいい。でも最後はまたLiveへ戻ってくる。Amyの場合、人生を知らないと歌が分からないのではない。歌を聴くと、人生のほうが見えてしまう。


5. Aretha Franklin —— なぜみんなArethaと言うのか

Aretha Franklinは私の世代ではない。でも、あまりにいろいろなSingerがAretha Franklinの名前を出す。曲も映画やTV、他のSingerのCoverなど、いろいろなところから出てくる。だから自分から「Arethaを聴こう」と思って入っていったというより、いつの間にか曲を知っていて、自然とFamiliarになっていたSingerだ。そして昔の映像を見ると、なるほど。これはみんなArethaと言うわ。となる。

Memphis生まれ、Detroit育ち

Arethaは1942年、Tennessee州Memphis生まれ。幼い頃、一家はBuffaloを経由してDetroitへ移った。1940年代半ば、Arethaがまだ4歳頃のことだ。父C. L. FranklinはBaptistの牧師だった。ただの町の牧師ではない。説教がRadioで流れ、Recordにもなり、全米に名前を知られる人物だった。DetroitのNew Bethel Baptist Churchを率い、Civil Rights Movementにも関わっていた。

Martin Luther King Jr.との関係

Martin Luther King Jr.といえばAtlantaのイメージが強い。でもCivil Rights MovementはAtlantaだけの運動ではない。Detroitにも大きなBlack Communityがあり、Civil Rights運動が活発だった。Arethaの父C. L. FranklinはKingと親交を持っていた。

1963年にはDetroitで大規模なWalk to Freedomを主催し、Kingも参加した。Arethaはそういう家庭で育った。Civil Rightsは、大人になって突然出会った社会問題ではない。子供の頃から身近にあった世界だった。

父親の教会が音楽の学校だった

Arethaの父親はDetroitで影響力を持つ牧師で、自宅には当時のGospel界を代表するSingerたちが出入りしていた。その中には「Queen of Gospel」と呼ばれたMahalia Jacksonや、後にSoul MusicのスターになるSam Cooke、Gospel SingerのClara Wardなどもいた。つまりArethaにとってGospelは、レコードで聴いて憧れるだけの音楽ではなかった。子供の頃から、そうした一流のSingerたちの歌声が身近にある環境で育ったのだ。

9〜10歳頃には父親の教会でSoloを歌い、12歳頃には父親のGospel Tourにも参加する。10代半ばにはGospel Recordを録音している。つまりColumbia Recordsに見つかる前から、ArethaはGospelの世界では実績のある若いSingerだった。

18歳でColumbia Recordsへ

Arethaは10代後半になると、GospelだけでなくPopやR&Bの世界へ進もうとする。その手本の一人がSam Cookeだった。Sam CookeもGospelからPop Musicへ進み、成功したSingerだった。

1960年、18歳。Columbia RecordsのProducer、John HammondがArethaの才能を評価して契約する。しかし、ここからすぐに大成功したわけではない。ColumbiaではJazz、Pop、Bluesなど、いろいろな音楽を歌った。歌はうまい。でも何かが噛み合わない。

1967年、Atlantic RecordsでBreakthrough

1967年、24歳。ArethaはAtlantic Recordsへ移る。ProducerのJerry Wexlerのもとで、Gospelで培った歌い方をもっと前面に出すようになる。“I Never Loved a Man” — 全米No.9。“Respect” — 全米No.1。“(You Make Me Feel Like) A Natural Woman” — 全米No.8。ここで一気にBreakthrough。

Arethaは突然現れた天才ではなかった。子供の頃からGospelの世界で歌い、10代でRecordを出し、Columbiaで何年も試行錯誤してきた。その声がAtlanticでようやく、時代と噛み合った。

“Respect”が持った意味

“Respect”はもともとOtis Reddingの曲だ。でもArethaが歌うと意味が変わった。1967年のAmerica。Civil Rights Movement。Women’s Movement。そこで25歳のBlack Womanが、R-E-S-P-E-C-Tと歌う。ただのHit曲ではなく、時代を象徴する曲になった。私は個人的には“Respect”より“A Natural Woman”のほうが好きだ。

その後も続いたCareer

1968年(25〜26歳)

  • “Chain of Fools” — 全米No.2
  • “Think” — No.7
  • “I Say a Little Prayer” — No.10

同年、Martin Luther King Jr.が暗殺されると、ArethaはMemorial Serviceで歌った。

1972年(30歳)

Gospel Live Album『Amazing Grace』。自分の音楽の原点へ戻った作品だ。

1980年(38歳)

Clive DavisのArista Recordsへ移籍。またClive Davisが出てくる。

1985年(43歳)

“Freeway of Love” — 全米No.3。

1987年(44歳)

George Michaelとの“I Knew You Were Waiting (For Me)” — 全米No.1。同年、女性として初めてRock & Roll Hall of Fame入り。

1998年(56歳)

Grammy Awardsで、急病のLuciano Pavarottiの代役として“Nessun Dorma”を歌う。Opera Singerの代役をSoul Singerが務める。普通なら意味が分からない。でもArethaはやってしまった。

2018年(76歳)

膵臓の神経内分泌腫瘍により死去。Grammy受賞18回。

なぜみんなArethaと言うのか

Whitney Houston。Alicia Keys。Mariah Carey。Beyoncé。Christina Aguilera。Kelly Clarkson。後の世代のSingerたちがArethaの曲を歌い、彼女への敬意を示してきた。Arethaは、Singerが聴くSinger。今回私が「歌姫」を選ぶ基準にしたものが、そのままここにある。もっとRecordを売った人は後から出てきた。もっと派手なSingerも出てきた。それでもSingerたちが、自分たちの前にいる人としてArethaを見る。だから何十年経っても、Aretha Franklinという名前が出てくる。

今回の一曲

A Natural Woman — 若い頃のAretha Franklin

私はやっぱり昔のArethaの歌が好きだ。滑らかで、ものすごく上手いのに、力を見せつけている感じがない。これを聴くと、なぜ後のSingerたちがArethaを尊敬するのか分かる気がする。


6. Alicia Keys —— 音楽への一途さ

Alicia Keysは今回の7人の中では少し違う。悲劇の人ではない。この人は、ずっと音楽をやっている。曲を書く。Pianoを弾く。自分で歌う。そして、とびきり歌がうまい。Celebrityというより、ずっとMusicianに見える。

Hell’s Kitchenで育つ

Alicia Keys、本名Alicia Augello Cook。1981年、New York生まれ。ManhattanのHell’s Kitchenで母親に育てられた。今のHell’s Kitchenから想像するより、当時は荒さの残るNeighborhoodだった。7歳からClassical Pianoを学び、10代には自分でも曲を書くようになる。15歳でColumbia Recordsと契約。しかしLabelとの音楽的な方向性が合わなかった。そして最終的に、またClive Davisが出てくる。

20歳で世界的Star

2001年、20歳。Clive DavisのJ RecordsからDebut Album『Songs in A Minor』を発売。Billboard 200 No.1。“Fallin’” — Hot 100 No.1。翌2002年のGrammyで一晩5受賞。20歳でこの成功だ。

その後もHitが続く

2003年(22歳)『The Diary of Alicia Keys』 — Billboard 200 No.1。“You Don’t Know My Name” — No.3。“If I Ain’t Got You” — No.4。私はAliciaなら、この曲。Piano、声、曲。余計なものがほとんどない。

2007年(26歳)

『As I Am』 — Billboard 200 No.1。“No One” — No.1。

2009年(28歳)

Jay-Zとの“Empire State of Mind” — No.1。Aliciaが“New York…”と入ってくる瞬間に、曲が一気に広がる。

2010年(29歳)

Swizz Beatzと結婚。第一子誕生。2014年には第二子が生まれる。

2012年(31歳)

“Girl on Fire”。AlbumもBillboard 200 No.1。その後もAlbumを作り、Liveを続け、Broadway Musical『Hell’s Kitchen』まで作った。20歳で世界的Starになった人が、40代になっても音楽を作り続けている。

Alicia Keysの何が好きなのか

私がAlicia Keysを見ると感じるのは、精一杯やっている人という感じだ。苦労人だから偉い、という意味ではない。20歳で世界的Starなのだから、Careerだけ見ればむしろ順調だ。でもCelebrityになることが目的だった人には見えない。Pianoを弾く。曲を書く。歌う。それを20代でも30代でも40代でも続ける。だから、この人、本当に音楽が好きなんだろうなと思う。

今回の一曲

If I Ain’t Got You

若い頃のLiveがいい。Pianoの前に座る。後ろにはBand。そして歌う。それだけで成立する。Alicia Keysはそれでいい。


7. Céline Dion —— 歌うことを諦めない

最後はCéline Dion。この人について最初に浮かぶ言葉は、尊敬。歌がうまいからだけではない。Hit曲が多いからでもない。結婚した。子供を持った。夫を癌で失った。自分自身も病気で歌うことが難しくなった。それでも歌うことを諦めない。

René Angélilとの出会い

Célineは1968年、Canada・Québec州Charlemagne生まれ。14人兄弟の末っ子。12歳のとき、Demo TapeがManager René Angélilのもとへ届く。RenéはCélineの歌を聴き、本気になった。最初のAlbumを作るために、自宅を担保に入れて資金を用意した。RenéはCélineより26歳年上。出会ったときCélineは12歳だったので、最初はManagerと子供のSingerという関係だった。その後、Célineが成人してから恋愛関係となり、1994年に結婚する。

世界的Superstarになるまで

1981年(13歳)最初のAlbumを発売。

1988年(20歳)Eurovision Song ContestでSwitzerland代表として優勝。

1990年(22歳)初の英語Album『Unison』。“Where Does My Heart Beat Now” — 全米No.4。

1992年(24歳)“Beauty and the Beast”でPeabo BrysonとDuet。Grammy受賞。

1993〜94年(25〜26歳)“The Power of Love” — 全米No.1。1994年、Renéと結婚。

1995年(27歳)French Album『D’eux』。世界1000万枚以上を売り、史上最も売れたFrench-language Albumとなる。

1996年(28歳)『Falling into You』。世界3000万枚以上。Grammy Album of the Year。“Because You Loved Me” — 全米No.1。

1997〜98年(29〜30歳)映画『Titanic』。“My Heart Will Go On”。世界の頂点へ行く。

Careerを一度止める

普通なら、もっと働くところだ。でもCélineは一度止まる。Renéが癌になった。そしてCéline自身も子供を望んでいた。不妊治療を受け、IVFを行う。2001年、32歳で長男René-Charlesが生まれた。世界的StarとしてCareerの絶頂にいた人が、家庭を作るために仕事を調整した。

2002年には『A New Day Has Come』で復帰。

2003年から2007年にはLas VegasのCaesars Palaceで長期Residency『A New Day…』を行う。母親になって戻っても、まだCéline Dionだった。

歌いながら涙を流した“Alone”

2008年。今回、私がCéline Dionで紹介したい映像がある。

Alone

中国・北京で収録された『Olympic Songfest』。この映像でCélineは、歌いながら本当に涙を流している。番組にはRenéも登場しているが、何が直接涙につながったのかまでは断定できない。

だから「Renéを思って泣いた」とは書かない。私は、女性Singerがあれほど完璧に歌いながら、自分の声が生み出す音楽の美しさそのものに感極まって、涙を流す姿をほとんど見たことがない。

もちろん、実際にCélineが何を感じていたのかは本人にしか分からない。でも、私にはそう見えた。悲しい歌詞に泣いているというより、歌っている本人が、その音楽の美しさに圧倒されているように感じたのだ。

40代でもう一度、子供を持つ

Célineは40歳を過ぎても、もう一人子供が欲しかった。再びIVF。簡単にはいかなかった。それでも続ける。2010年、42歳。双子のNelsonとEddyが生まれる。これでRenéとの子供は3人。René-Charles、Nelson、Eddy。

Célineの場合、CareerかFamilyか、どちらかを選んだというより、両方をどうにか成立させようとしたという感じがする。

Renéを失う

Renéの癌が再発する。Célineは仕事を止め、夫のそばにいる。2016年、Renéが73歳で亡くなった。Célineは47歳だった。12歳のCélineを信じた人。Manager。恋人。夫。3人の子供の父親。Careerのほとんどを一緒に作った人。それでもCélineはステージへ戻った。同年のBillboard Music Awardsでは“The Show Must Go On”を歌った。Awardを渡したのは長男René-Charles。曲名まで出来すぎている。

今度は自分が歌えなくなる

2022年、54歳。CélineはStiff-Person Syndromeを患っていることを公表する。筋肉の硬直やSpasmを起こす、非常にまれな神経疾患だ。SingerであるCélineにとって、歌うための身体のControlにも影響する。夫を失っても歌った人が、今度は自分の身体によって歌うことを難しくされる。ConcertをCancelし、Tourも中止になった。

2024年にはDocumentary『I Am: Celine Dion』が公開され、病気と向き合う姿が描かれた。そして同年、56歳。Paris Olympics Opening Ceremony。Eiffel TowerからÉdith Piafの“Hymne à l’amour”を歌った。病気公表後の大きなPerformanceだった。

12歳から歌う。20歳でEurovision。20代で世界的Superstar。30代で母親になる。40代で双子を産む。40代後半で夫を失う。50代で歌うことが難しくなる病気になる。そしてまた歌う。歌えるなら歌う。Renéがいたときも。Renéを失ったあとも。自分の身体が思うようにならなくなってからも、戻ろうとする。だから私はCéline Dionを、尊敬できる歌姫として最後に置きたい。


私にとって「歌姫」とは何なのか

最初はもっと候補がいた。でも考えていくうちに、好きな女性Singerを並べるだけの記事ではないことが分かってきた。歌がうまいだけでもない。Recordが売れただけでもない。悲劇的な人生を送ったからでもない。

Janisは、受け入れられなかった個性をArtistとして爆発させた。
Karenには、誰にも代われない声があった。
Whitneyは、後のSingerにとって歌唱力そのものの基準になった。
Amyは、歌と人生を切り離せないほど強烈な表現を残した。
Arethaは、何世代も後のSingerが名前を挙げ続ける存在になった。
Aliciaは、Pianoを弾き、曲を書き、歌うMusicianであり続けている。
Célineは、人生に何が起きても歌うことを諦めない。

全然違う。でも一つ共通している。その人でなければ成立しない。Karenの“Superstar”を、もっと声量のあるSingerが歌えばKarenを超えるのか。たぶん違う。Janisの“Ball and Chain”を、もっと正確に歌えるSingerが歌えばJanisを超えるのか。これも違う。Amyの“Love Is a Losing Game”も同じだ。歌の技術だけでは説明できないものが残る。そして、それを一番よく分かっているのが、たぶんSinger自身なのだと思う。だから後の一流Singerが、またその人たちの名前を出す。

歌手が憧れる歌手。そして、その人にしかできない表現を持っている人。私にとって「歌姫」というのは、そういう人なのだと思う。時代もGenreも違う。生き方も違う。でも映像を一本見れば分かる。この人じゃなければダメなんだ。結局、それが一番大きい。

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